三浦元秋
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生い立ち
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、駿河今川家に仕えた三浦義次(小次郎)[注釈 4]の子。『寛政譜』記載の没年・享年から逆算すると享禄4年(1531年)生まれ[注釈 1]。ただし、これでは父・義次が10歳の時の子となる[注釈 5]。
江戸時代中期の随筆『塩尻』は、元和2年(1616年)に徳川家康が没した際に「三浦八郎左衛門」というで83歳で300石取りの武士が殉死したと記すが、この八郎左衛門は家康の少年時代[注釈 6]に草履取りを務めていたと説明している[4]。ただし殉死については井出八郎右衛門(家康の厩舎人を務めていた人物)と混同されたものである。江戸時代後期成立の『甲子夜話』にも、幼少期に家康に近侍した「三浦八郎左衛門」の話が見られる[2](後述)。
『寛政譜』によれば、元秋は今川氏真のもとでしばしば武功を挙げたという[1]。
徳川家に仕える
『寛政譜』によれば、天正元年(1573年)に家康に拝謁してのちに仕えた。
元和2年(1616年)に家康が没すると、元秋は榊原照久(久能山東照社祭主)に添えられて同社附となり、元和4年(1618年)8月に88歳で没した[1]。
『甲子夜話』は、「三浦八郎左衛門」の死に関して以下のような逸話を載せる(ただし、八郎左衛門=元秋の職分についての説明はない)。三浦八郎左衛門は家康との縁から久能に住み、久能山の東照社に日参していたが、あるとき内陣から「三浦、三浦」と呼びかける声が聞こえたため、八郎左衛門は本殿の階下まで進んで遠拝した。八郎左衛門はこのことを榊原照久に語り、今生があとわずかであることとこれまでの懇意への感謝を述べ、その3日後に没したのであるという[2]。