井波町
日本の富山県東礪波郡にあった町
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井波町(いなみまち)は、かつて富山県東礪波郡にあった町。2004年(平成16年)11月1日に井波町を含む8自治体が合併して南砺市が発足し、井波町は廃止された[1]。
| いなみまち 井波町 | |||||
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| 廃止日 | 2004年(平成16年)11月1日[1] | ||||
| 廃止理由 |
新設合併 福野町、城端町、平村、上平村、利賀村、井波町、井口村、福光町 → 南砺市[1] | ||||
| 現在の自治体 | 南砺市[1] | ||||
| 廃止時点のデータ | |||||
| 国 |
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| 地方 | 中部地方(北陸地方) | ||||
| 都道府県 | 富山県 | ||||
| 郡 | 東礪波郡 | ||||
| 市町村コード | 16406-2 | ||||
| 面積 | 26.20 km2 | ||||
| 総人口 |
9,965人 (推計人口、2004年10月1日) | ||||
| 隣接自治体 | 砺波市、福野町、利賀村、井口村 | ||||
| 町の木 | サクラ | ||||
| 町の花 | ミスミソウ | ||||
| 町の花木 | ツツジ | ||||
| 井波町役場 | |||||
| 所在地 |
〒932-0211 富山県東礪波郡井波町井波520番地 | ||||
| 座標 | 北緯36度33分54秒 東経136度58分18秒 | ||||
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| ウィキプロジェクト | |||||
地理
- 山岳
- 局地風
- 井波風
隣接していた自治体
井波の歴史(いなみのれきし)では、現在の富山県南砺市井波地域を中心とする地域の歴史について述べる。
井波地域は、砺波平野南東部の八乙女山地山麓に位置し、古代には高瀬神社周辺を中心に集落形成がみられ、中世には高瀬庄を中心とする荘園支配の場となった。中世後期には本願寺五世綽如によって瑞泉寺が創建され、同寺は北陸における本願寺教団の展開および一向一揆と深く関わった。[2]
近世の井波は、瑞泉寺の門前町を基盤とし、加賀藩領越中国砺波郡の町場として発展した。井波は城端・五箇山・福光・福野方面と結ばれる交通・市場の結節点であり、北川は「五ヶ山口」、畠方町は「城端・福光口」と呼ばれた。[3]また、宿駅、御蔵・蔵宿、蚕種・真綿・絹、五箇山紙などの流通、井波大工・井波彫刻の形成を通じて、加賀藩領南砺地域の経済・信仰・職人文化の一角を担った。[4][5][6][7]
近代以降は旧砺波郡南部、のちの東礪波郡における行政・商工業・教育文化の拠点の一つとなった。とくに五箇山紙、五箇山生糸、井波の蚕種・絹織物、城端絹、福光糸などを含む南砺波地方の産業圏のなかで、井波は商業、蚕種、絹織物、教育文化の面で重要な役割を担った。[8][9]
原始・古代
縄文時代の遺跡
井波地域の歴史は、八乙女山麓の台地に点在する縄文時代の遺跡にさかのぼる。『井波町史』は、井波町の歴史について「八乙女山麓の台地に点在する縄文時代の遺跡にはじまる」と概説している。[2]
井波町域では、閑乗寺山遺跡や示野遺跡など、砺波平野南部の山麓・段丘上に形成された遺跡が知られる。示野遺跡は縄文時代中期の遺跡として、庄川上流方面との交通との関係も指摘されている。[10]
律令制と高瀬神社
古代の井波地域を考えるうえで重要なのは、高瀬神社とその周辺地域である。高瀬神社周辺では、須恵器・土師器の破片が発見されており、『井波町史』は、これらの遺物から平安時代には高瀬神社周辺に大きな集落が形成されていたと推定している。[11]
高瀬神社は、宝亀11年(780年)に史料上初見し、のちに『延喜式神名帳』に関わる官社として位置づけられた。『井波町史』は、高瀬神社について、単なる国史見在社とは異なり、国家的祭祀に関わる官社としての性格を持つものと説明している。[12]このことから、高瀬地域は律令国家の地方支配・祭祀制度と結びついた地域であったと考えられる。
条里制と砺波郡
律令制下では、現在の井波地域は越中国砺波郡に属した。『井波町史』は、国郡里制・班田制・条里制の展開を、律令国家による地方支配の一環として説明している。[13]
砺波郡では条里制遺構が確認されており、条里制の具体的な起点については諸説があるものの、井波町域が条里制の範囲に含まれていたこと自体は明らかとされる。[14]
『井波町史』は、砺波平野における古代的開発について、庄川・小矢部川の扇状地の扇裾・扇側を中心に進んだとし、高瀬神社の鎮座、条里制遺構、東大寺領荘園の存在などを関連づけている。[15]
中世
高瀬庄の成立
中世の井波地域では、高瀬庄が中心的な位置を占めた。高瀬庄は、平安末期以降、鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院領・八条院領などの皇室領として伝領された。『井波町史』は、高瀬庄の成立について、八条女院領にさかのぼる可能性を指摘し、のち安楽寿院領として伝えられたと説明している。[16]
鎌倉時代末から南北朝期にかけて、高瀬庄は大覚寺統の皇室領として伝領された。南北朝の動乱のなかで、足利尊氏は高瀬庄を東大寺八幡宮へ寄進した。『井波町史』は、この寄進について、高瀬庄が庄川上流・飛騨・越中五箇山方面の南朝勢力に対する「おさえ」として重要地点にあったことを背景に、東大寺を通じて北朝・武家方につけようとしたものと解釈している。[17]
東大寺領高瀬庄と武士
高瀬庄では、地頭・惣追捕使・検校・公文・田所・定使・番頭など、多様な荘官が存在した。『井波町史』は、この荘官の多様さについて、高瀬庄における在地情勢の複雑さを示すものとしている。[18]
南北朝期以降、高瀬庄では地頭・守護・代官などの武士勢力の介入が強まった。室町時代には、守護畠山氏の被官で、守護代遊佐氏とも関係を持つ下長氏が、高瀬庄地頭方の代官として登場した。応永31年(1424年)に下長氏は代官となったが、その収奪は在地農民にとって大きな負担であった。[19]
永享8年(1436年)、高瀬庄の百姓らは下長氏の支配に反発し、逃散や訴えによって東大寺側に訴えた。『井波町史』は、年欠の「高瀬庄百姓連署書状」にみえる「惣分計会」という表現を重視し、高瀬庄の農民のあいだに惣的結合が成立していたとする。[20][21]
その後、高瀬庄の代官はたびたび交替した。康正2年(1456年)には、近隣の井口郷を本拠とする在地土豪である井口国忠が高瀬庄代官を請け負っている。『井波町史』は井口氏について、名越時有の遺児時兼の挙兵に応じた井口氏の後裔氏族であり、越中の代表的な土豪の一つであったとする。[22]
農民惣と一向宗徒
高瀬庄では、在地農民の自治的結合である「惣」または「惣分」が形成された。『井波町史』は、永享末年から嘉吉年間にかけて、高瀬庄の農民のあいだに惣的結合が成立していたと説明している。[21]この惣的結合は、後に本願寺教団の講的結合と重なり、農民・門徒の抵抗を支える基盤となったとされる。[23]
応仁の乱後、高瀬庄の地下人は瑞泉寺を中心に団結した一向衆徒と同心し、年貢未進や一揆によって荘園領主に対抗した。『井波町史』は、文明13年(1481年)の一揆について、福光城主石黒氏と瑞泉寺との戦いとしての性格を持つ一方、高瀬庄の地下人と一向衆徒の同心が背景にあったと推定している。[24]
綽如と瑞泉寺の創建
明徳元年(1390年)、本願寺五世綽如は越中井波に瑞泉寺を創建したとされる。『井波町史』は、綽如について「越中井波に瑞泉寺を創立す」と記している。[25]瑞泉寺は、のちに本願寺教団の北陸展開における有力拠点となった。
綽如が井波を選んだ理由について、『井波町史』は、井波が五箇山から砺波平野へ出る地点にあり、五箇山を南北に縦断する庄川にも臨む「五箇山の玄関口」にあたると説明している。[26]この地理的位置は、井波が高瀬庄・五箇山・城端方面を結ぶ南砺地域の歴史的結節点であったことを示すものと考えられる。
蓮如期の瑞泉寺と一向一揆
15世紀後半、蓮如の時代には、二俣本泉寺と井波瑞泉寺の兼住関係などを通じて、瑞泉寺は本願寺教団の北陸布教と深く結びついた。『井波町史』は、二俣本泉寺・井波瑞泉寺の兼住関係や、瑞泉寺三代蓮乗と蓮如との関係を詳述している。[27]
蓮如が吉崎を去ったのち、北国の一向宗徒は一揆へ傾斜していったとされる。瑞泉寺は、勝興寺などとともに、越中における本願寺勢力の展開に関わった。[28]
戦国期の瑞泉寺は、越中一向一揆と密接に関わった。『井波町史』は、文明13年(1481年)の一揆を、福光城主石黒氏や医王山惣海寺などに対する砺波・射水の一向宗徒の動きとして説明し、その後、古国府勝興寺と井波瑞泉寺の両勢力が発展する契機となったと述べている。[24]
天正期には、瑞泉寺の退転と越中一向一揆の終焉が問題となった。『井波町史』は、瑞泉寺側が一時五箇山へ避難したとする記述や、本願寺嗣法の教如が城端善徳寺の誘いによって越中五箇に入り、上杉景勝と結んで能登の一向宗徒とともに織田勢に対抗するよう激励したとする記述を紹介している。[29]
近世
前田氏領有と加賀藩領
天正13年(1585年)、前田利家は豊臣秀吉の援を受けて越中国の佐々成政を降し、その功により神通川以西の婦負・射水・砺波三郡を与えられた。これにより砺波郡に属する井波地域も前田氏領に組み込まれ、以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで前田氏の支配下に置かれた。[30]
藩政初期の井波町は、福野・放生津とともに町方的性格をもち、諸商売が自由であったとされる。しかし、承応4年(1655年)には井波町を宿並の役に組み込む動きがあり、改作法の施行過程で郡奉行支配の村に組み入れられた。[31]このため井波は、瑞泉寺門前町であると同時に、加賀藩の郡方支配・宿駅制度・年貢収納制度のなかに位置づけられる町となった。
瑞泉寺門前町と市場
井波町は瑞泉寺の門前町として形成され、市場町としての性格も有していた。町名の八日町・六日町・三日町は市日に由来するとされ、瑞泉寺境内にも市があったと伝えられる。[3]また、井波は城端・五箇山・福野方面から瑞泉寺へ至る道筋にあたり、砺波各地へ下る交通の要所でもあった。[3]
このような位置により、井波は単なる寺院門前ではなく、南砺地域の山方・平野部・町場を結ぶ流通上の接点となった。とくに瑞泉寺への参詣、門前の市、五箇山・城端方面との往来は、近世井波の商業的性格を支えた。
宿駅と交通
井波宿の成立時期は明確ではないが、加賀藩の宿駅制度のなかで井波は宿駅として機能した。宝暦10年(1760年)頃の上使街道では、井波から庄川町方面へ抜ける道が描かれており、井波は飛騨方面に通じる交通路とも結ばれていた。[4]
井波宿は北陸街道の本線からは離れていたが、高岡宿の加宿であった。高岡宿が多忙な際には、井波宿は郡方の村々とともに駅馬・雇馬・夜着・布団などを提供して加勢した。[32]また、郡奉行や改作奉行が民情視察・開作状況の確認のために井波宿に宿泊し、将軍代替わりの巡見上使の御用宿も井波の有力商家が務めた。[32]
商業と領外交易
井波は瑞泉寺門前町として始まった町であるが、近世には商工業の町としての性格を強めた。『井波町史』は、井波の諸生産が初期から領外を販路とするものが多く、加賀藩内では稀有な町であったとしている。[33]
井波町の主要な産業・交易品には、蚕種、真綿、絹、五箇山産物などがあった。井波商人の関所通過手形願は寛政4年(1792年)から慶応元年(1865年)までのものが残り、蚕種商・絹真綿商などが大聖寺関所や東猪谷関所を通って、越前・京都・美濃・近江・大阪・丹波・信濃・上野・奥州・武蔵・飛騨方面へ出向いたことが確認できる。[33]
蚕種は近世前期の井波第一の産業であり、元禄期には年間6万枚を生産し、越後・出羽・奥州・信濃・甲斐・加賀・越前・飛騨・美濃・尾張に及ぶ広範囲へ販売された。[33]のちには他国商人との競争を受けたが、井波の広域商業を示す代表的な産業であった。
五箇山・城端との関係
五箇山では、生糸・紙・塩硝などの産物が生産され、これらは城端・井波など平野部の町場と結びついて流通した。五箇山農民は年貢を金納する必要があり、商品作物を販売して貨幣を得たため、城端・井波の商人との売買・前貸関係が形成された。[34]
五箇山紙の流通では、井波町の紙商が五箇山の紙漉屋から紙を受け、砺波郡・射水郡の各地へ販売していた。[35]また、五箇山の紙は、本流沿いの村では城端へ、利賀沿いの村では井波へ販売される慣習があったとされる。[36]
天保期には、五箇山紙の販売組織をめぐって城端町と井波町の間に関係・競合が生じた。井波町は城端町と同様に判方御印を根拠として紙取扱の権利を主張し、利賀谷および井波町付近の紙をめぐって陳情を続けた。[36]天保14年(1843年)には井波町が五箇山紙700丸の払紙を受けることとなり、嘉永以後には3,000丸から4,000丸規模へ増加した。[37]
年貢米・御蔵・蔵宿
井波には藩の年貢米を納める御蔵が置かれた。井波地方は当初、城端御蔵へ年貢米を納入していたが、不便であったため、寛延2年(1749年)に井波御蔵が設けられた。[38]天保10年(1839年)には、松島・金屋岩黒・山見・杉谷新・前山・井波・北川・三清・北市・戸板・五領・今里・蓮代寺・清玄寺・東城寺・西院瀬見など約40か村が井波御蔵に納入していた。[38]
砺波郡内の御蔵米は、馬下げや小矢部川水運を利用して吉久・伏木方面へ運ばれた。井波・城端・福光・福野の御蔵米は、まず鴨島・津沢まで馬で運ばれ、その後、川舟で吉久・伏木へ運送された。[39]弘化4年(1847年)には岩武新用水を利用して井波御蔵米が津沢へ川下げされた。[40]
また、井波には蔵宿も存在した。蔵宿とは、藩士の知行米を預かり、その収納・払い出しを担う町人であり、蔵米を担保とする金融も行った。[41]寛延2年に復興した井波蔵宿は、近村41か村から給人米を預かった。[42]
蚕種・真綿・絹
井波は近世に蚕種・真綿・絹の生産と取引で知られた。蚕種は元禄期に井波第一の産業であり、広く領外へ販売された。[33]また、元禄年間には井波商人が絹・真綿・八講布を買い集め、城端・今石動・高岡商人とともに金沢や京都へ販売していた。[43]
文化期以降、井波の絹布生産は増加した。文政から天保期には城端をしのぎ、3万から4万疋規模の生産をあげるようになったとされる。[44]この時期には若殿用の目透竪絹の生産も命じられ、技術改良も行われた。[44]
井波大工と井波彫刻
井波には、加賀藩から屋敷扶持を与えられた大工・鍛冶が存在した。文禄3年(1594年)には大工10人に、また鍛冶4人に屋敷扶持が与えられた。[45]『井波町史』は、これらの大工・鍛冶はもともと拝領地に居住していた者ではなく、藩の御用を務めた褒美として屋敷扶持を受けたものと説明している。[46]
これらの拝領地大工は、瑞泉寺の堂塔建築に関わった。安永3年(1774年)の瑞泉寺本堂再建には、井波の彫刻師・大工が参加し、茶屋甚作、柴田清右衛門、茶屋仁左衛門、北村七左衛門らが関わった。[47]井波彫刻は、堂塔建築を担う大工が虹梁などの彫刻的技術を発展させたことを背景に成立したとされる。[47]
瑞泉寺と近世信仰
瑞泉寺は近世井波の宗教的中心であった。慶安2年(1649年)、瑞泉寺は東本願寺派へ帰参し、その後、東本願寺家老方から、越中門下の諸事を井波瑞泉寺と婦負郡鵜ヶ鼻菩徳寺へ申し触れるよう命じられた。これにより、瑞泉寺は城端善徳寺などとともに越中の東派寺院支配の一端を担うこととなった。[48]
瑞泉寺には聖徳太子像・太子絵伝が伝えられ、太子信仰も井波の宗教文化を特徴づけた。慶安4年(1651年)には、瑞泉寺の太子絵伝八軸が前田利常に披露され、修復や箱の寄進を受けたと伝えられる。[49]のち、太子絵伝の絵解きは「太子伝会」として行われ、毎年7月下旬に町中で行事が営まれるようになった。[50]
近代
明治維新と地方行政
明治維新後、加賀藩は金沢藩と改称され、藩政改革のなかで砺波郡には郡宰などの役職が置かれた。明治2年(1869年)の金沢藩職制改正では、砺波郡宰は今石動に置かれ、城端が付属地とされた。[51]その後、廃藩置県、戸籍制度、町村制などの整備を通じ、井波は近代的な行政制度のなかに組み込まれていった。
明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により、礪波郡井波町が発足した。当時の井波町の面積は6.58 km2であった[52]。同年7月12日には初代町長の吉川直矩が就任した[53]。『井波町史』は吉川を旧加賀藩士族として紹介している。[54]
東礪波郡役所と行政上の位置
明治29年(1896年)、砺波郡が東西に分かれると、井波町は東礪波郡に所属した。東礪波郡役所は井波城址に移され、『井波町史』は、この移転により井波町が「名実ともに南砺地域の行政中心地」になったと記している。[55]
東礪波郡役所庁舎は、井波城址北土居のうち旧富山藩士所有の地所を八日町・六日町・松島の三町内が買い上げて寄付し、地引きなどの工事も三町内が負担して、同年7月に竣工した。[56]このことは、藩政期の城址や旧藩士所有地が、近代の行政施設へ転用された例である。
近現代の自治体沿革
近代以降の井波町の自治体としての沿革は以下の通りである。
- 1889年(明治22年)
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行にともなう礪波郡の分割により東礪波郡が発足し、井波町は東礪波郡所属となる。
- 1951年(昭和26年)4月1日 - 東礪波郡南山見村を編入する[57]。
- 1954年(昭和29年)4月1日 - 東礪波郡井波町と山野村が新設合併し、改めて東礪波郡井波町が発足する[57]。
- 1959年(昭和34年)1月1日 - 東礪波郡高瀬村の一部を編入する。高瀬村の残部は東礪波郡福野町に編入された[57]。
- 2004年(平成16年)11月1日 - 西礪波郡福光町、東礪波郡福野町、井波町、城端町、平村、上平村、利賀村及び井口村が新設合併して南砺市が発足し、井波町は廃止される[57]。
旧藩士・士族・地域指導層
井波の近代化には、旧藩士・士族、藩政期の地域役人層、寺院関係者などが関わった。
教育面では、幕末から明治にかけて、僧侶、浪人、士族などが寺子屋や学塾の師匠となった。『井波町史』は、金沢士族の野本和彦が寄留して塾を開き、漢籍を教えたことを記している。[58]
一方、武部家は藩士ではなく、加賀藩政下で三清組十村役をつとめた地域有力者の家であった。明治期には武部尚志・武部堅兄弟が富山県第一期県会議員に当選し、尚志は初代県会議長となった。武部其文や菊野久太郎らは、のちに井波周辺の政治運動に関わった。[59]このように、井波では旧藩士・士族だけでなく、藩政期の地方役人層や有力農家が近代地方政治に接続していった。
城端・五箇山との産業的関係
井波の近代産業を考えるうえで、城端・五箇山との関係は重要である。五箇山紙は藩の重要産物として取り締まられてきたが、明治元年(1868年)に金沢藩が紙方仕法を解除すると、城端の野田紙取集所をめぐって関係していた城端・井波の紙商人の活動も再編された。『井波町史』は、五箇山紙の販売をめぐり、城端と井波の紙商人の間にたびたび摩擦があったことを記している。[60]
生糸・絹織物の面でも、南砺波地方には地域的な分業があった。幕末から明治初期にかけて、井波絹は井波の重要産業であり、城端絹、五箇山生糸、福光糸などとともに、地域の蚕糸・絹織物経済を形成した。[8]
蚕種・絹織物業
井波は近代に入って蚕種業でも大きな位置を占めた。明治3年(1870年)には、井波など五か村で蚕種製造鑑札の申請が行われた。明治4年(1871年)の春蚕種生産高では、井波が製造戸数・生産枚数とも中心を占め、井波73戸で10,620枚、五か村合計で111戸・16,420枚であった。[9]
明治後期から大正・昭和期にかけても、井波の蚕種業は富山県内で重要な地位を保った。『井波町史』は、昭和期に入ると東砺波郡の蚕種生産高がほぼ井波町の生産高そのものとなり、井波町の蚕種業が県下一となったと記している。[61]
絹織物業では、大谷彦次郎の工場をはじめとして、明治後期に複数の製糸・織物工場が設立された。井波の織物業界では羽二重のほか、斜子、奉書節、絹、錦帯地、博多帯地、ハンカチーフなども生産された。[62]
教育と文化
明治期の井波では、小学校制度の整備が進んだ。明治6年(1873年)、井波では瑞泉寺を仮校舎として小学校が開かれ、のち得智小学校と命名された。明治9年(1876年)には瑞泉寺境内に校舎が建てられ、落成開校式が行われた。[63]
明治15年(1882年)には、青木万太郎ら有志により「北越井波書籍館」が設けられた。同館には『史記評林』などが所蔵され、図書館的施設として位置づけられている。[64]
また、明治42年(1909年)には井波戊申青年義会が結成された。会長には青木万太郎が推挙され、青年教育、敬老事業、地域活動などを行った。[64]大正期には井波少年義勇団と井波戊申青年義会が合併し、井波戊申青年団が成立した。[65]
自由民権・政党政治
明治期の井波周辺では、自由民権運動や政党政治の影響もみられた。板倉橘四郎、上田晃沢、春田嘉一郎らを中心とする啓蒙運動が行われ、雑誌『学林之春芽』などを通じて政治思想や学芸への関心が高められた。[66]
武部其文、菊野久太郎、板倉橘四郎らは、井波大同倶楽部に関わり、北陸自由党や政党政治の展開のなかで活動した。[59]井波の政治文化は、旧藩政期の地域指導層、商工業者、教育関係者、寺院関係者が重なり合う形で形成された。
大正・昭和初期の近代化
大正期の井波には、電灯、鉄道、自動車、ラジオなどの近代的生活文化が入り、町の生活様式は大きく変化した。[67]
大正14年(1925年)9月7日、井波では大火が発生した。火災は強風にあおられて広がり、井波小学校、町役場、警察署、出町区裁判所出張所、加越鉄道井波駅などを含む多数の建物が焼失した。焼失戸数は275戸、罹災人口は1,257人に及んだ。[68]
大火後、井波町では復興委員会が組織され、道路改修、橋梁架設、住宅建設、資金供給、職業斡旋、建築用材供給、警備施設改善などが進められた。[69]昭和初期には、浸水地補償問題や庄川水力電気会社との関係のなかで、紡績工場の誘致も町の近代産業化策として進められた。[70]
昭和8年(1933年)4月には、井波町復興祭が4日間にわたって行われ、富山紡績井波工場の公開も行事に含まれた。『井波町史』は、この復興ぶりについて、昭和初頭の日本経済の不況下において目立つものであったと記している。[71]

