京都市の観光

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京都駅を利用する人(2016年)

京都市の観光(きょうとしのかんこう)について論じる。京都が日本における主要な観光地となったのは宿場が充実し、庶民に経済的余裕が生まれた江戸時代のことであり、多くの名所案内が編まれた。明治期に東京奠都が行われると、京都は勧業政策の一環として各種の博覧会を開き、これがその後の観光行政を形作った。昭和初期においては観光課が設立され、これは日本の地方行政においてはじめてのこととなる。京都市の観光行政は戦時期には解体されるものの、戦後、国民の生活に余裕が生まれ、交通網も整備されると、京都市を訪れる観光客は増加していった。しかし、1970年代半ばより京都市の観光客は伸び悩みはじめ、続いて起こった古都税をめぐる問題も観光に打撃を与えた。2000年代以降は観光客は再び増加しはじめ、2010年代以降は円安やビザ緩和などの影響で外国人観光客も多く京都を訪れるようになった。

京都を訪れる観光客は年間およそ5000万人程度であり、そのうちの20%弱を外国人観光客が占める。観光業は京都市において製造業の次に重要な産業となっており、市民のおよそ5分の1にあたる15万人が観光関連産業に従事している。

江戸期

『都名所図会』より三条大橋。近世には京都は主要な観光地となり、三条大橋界隈には旅行者のための宿屋街が発達した。

中世以前にも、巡礼旧跡の見物といった旅行は、貴族上流階級の文化として存在した[1]。近世には、街道における宿場の充実、為替の流通や庶民生活の向上などを背景として、幅広い階層の間で旅行が一般的となった[2]。当時の日本において庶民が娯楽を目的として旅行することは一般に認められていなかったが、人々は巡礼や湯治などを名目として旅行した。京都は伊勢神宮への往復路で立ち寄ることが可能であり、西国三十三所の札所、あるいは各宗派の本山なども立地していた。さらに歌枕をはじめとする名所も充実しており、主要な観光地のひとつとして機能した[3]

また、17世紀後半には日本の経済的中心として大坂が勃興し、京都の経済は「名物・名産」であるところの工芸・手工業を中心とするものに転換した[4]。とはいえ、京都の産業は概して停滞の傾向にあり、奈良本辰也森谷尅久幕藩体制下の京都には「観光都市としての生き方しかなかった」と論じる[5]。京都では明暦4年(1658年)には『京童』『洛陽名所集』、寛文5年(1665年)には『京雀』といった名所案内が刊行されるようになり、18世紀にはこうした流れを汲んで実用的な小型の旅行案内記も刊行されるようになった。安永9年(1780年)には『都名所図会』が刊行され、これに続いて名所図会が多く著された[6]。また、名所や景観を書き加えた地図も刊行された。三条大橋近辺には旅行者のための宿屋街が発達し、芝居街や祇園新地といった遊興地もつくられた。天保12年(1842年)の『浪華組道中記』によれば、一部の宿屋は有料の名所案内も実践していた[7]。享和2年(1802年)に京都を訪れた滝沢馬琴によれば、当時の京都の遊女町で遊ぶ客の3分の2が京都以外の出身者であったという[5]

明治・大正期

京都博覧会会場における都をどり

明治2年(1869年)には東京奠都が行われ[8]、高級消費需要によって成立していた京都の経済基盤は大きな打撃を受けた。このことにより、京都からは多くの人口が流出した[9][10]。明治初期の京都は衰退を免れるべくさまざまな近代化政策を試みる。この時期はじまった博覧会をはじめとするイベントは、その後の京都における観光行政を形成した[11]

明治4年10月10日(1871年11月22日)より会期4日間で開かれた京都博覧会は、京都において開催されたはじめての博覧会であった。これは物産展的な性質が強かったが、翌年に開かれた第一回京都博覧会においてはより娯楽的な性質が追求された[12]。第一回京都博覧会においては都をどりが創始され[13]、外国人の入京も許可された[14]。1883年(明治6年)の第二回京都博覧会においては、明治元年以降庶民の立ち入りが禁じられてきた京都御所が会場となった。また、このとき、京都で刊行されたはじめての欧文活版印刷の英語案内書である The Guide to the Celebrated Places in Kyoto & the Surrounding Places for the Foreign Visitors が作られた[15][注釈 1]。以後、京都博覧会は毎年開催されるようになり、地方における勧業に資する試みとして注目されるようになった[18]。また、この時代には当局による名所の保護政策もはじまった[19]

第四回内国勧業博覧会における器械館の様子(1895年)

1877年(明治10年)には外国人遊歩規定が廃止されるが、この年には東山にホテル・自由亭が開業した[20]。1887年(明治20年)には京都府会において「横浜東京ハ玄関ノ如ク京都ハ座敷ノ如シ」として、京都には多くの外国人観光客が来訪すべきであること、名所を繋ぐ道路は外国人に笑われないようなものである必要があるとの観点から、その整備を訴える議案が提出された[21]。1888年(明治21年)には、京都市街におけるはじめての西洋風ホテルである常磐ホテルが開業した[20]。1895年(明治28年)には第四回内国勧業博覧会平安遷都千百年紀念祭が開催され、これに応じて少なくとも40冊の名所案内が刊行された[22]

1911年(明治44年)時点で、京都市内の旅舎数は655であった。旅舎は特に下京区に多く、これは京都駅の利用者・本願寺の参拝客が多かったことに由来する。1906年(明治39年)から1910年(明治43年)にかけての宿泊者数は40万人から50万人前後であるが、法然七百年忌法要・親鸞六百五十回大遠忌法要があった1911年には955,095人が京都に宿泊している[23]。大正期の京都における年間宿泊客は最低40万人、最高80万人であり、年間平均はおよそ70万人である。明治末期と比較して増加しているとはいえ、大正期の推移のみを見ると宿泊客の数は漸減している[24]

昭和期

大礼記念京都大博覧会のポスター(1928年)
時代祭(1985年)

1928年(昭和3年)には昭和天皇即位にあたっての大礼が京都でとりおこなわれた。同年にはこれを祝して大礼記念京都大博覧会が開催されたほか[25]市電市バスの拡充、叡山空中ケーブルの開業、阪急電鉄京阪電鉄の延伸など、交通網も整備された[26]。京都市からは観光客を受け入れるべく『京都名勝誌』が刊行された。また、1930年(昭和5年)には、京都市に観光課が設置された[27]。これは、おそらくは日本の地方行政組織のなかではもっとも早い出来事であった[26]。さらに、1931年(昭和6年)には京都駅前に観光案内所が設立された[28]。とはいえ、この年に満州事変が勃発すると、次第に社会風潮の戦時色が強まり[29]、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦に応じて観光課は解体された[30]

戦後まもない1946年(昭和21年)には京都市観光連盟が発足し、翌年には京都市観光課も復活した。また、1949年(昭和24年)には京都国際文化観光都市建設法が成立・施行されるも、同法において定められた観光行政への国家扶助はほぼ実現しなかった[31]。戦後復興が進み、人々の生活に余裕が生まれると、京都を訪れる観光客は大きく増えた。1949年時点での京都観光客は170万人(うち宿泊客45万人)であったが、これは1951年(昭和26年)には350万人へと倍増し、さらに1954年(昭和29年)には700万人、1960年(昭和35年)には1000万人(うち宿泊客300万人)を越えた[32]東海道新幹線名神高速道路などが開通し、交通の便が改善したことも、京都に観光客を呼び込む追い風となった[28]

1970年(昭和45年)に国鉄が行った「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンや小京都ブーム、アンノン族の登場などによって、1975年(昭和50年)には観光客数は3800万人に到達するも、それ以降は横ばいとなった。高畑重勝によれば、これはオイルショック後の旅行が「安・近・短」をベースとするものにシフトしたからである[28]。また、宗田好史によれば、日本人の海外旅行が盛んになったこと、全国に東京ディズニーランドをはじめとする集客性の高い施設が開業したことなどにより、観光地としての京都の重要性が相対的にみて弱まったことが影響している[33]

さらに、1985年(昭和60年)には古都保存協力税をめぐる紛争が生じた[28]。これは社寺の拝観料に課税して文化行政の財源を確保しようとするものであるが[34]京都仏教会はこれに強く反発し、主要寺院の拝観停止をもって抵抗した[35]。この影響で京都の観光客は大きく落ち込み、その後も増加することはなかった。このことは、京都経済停滞の大きな要因となった[36]。一方で、同紛争は京都市行政が社寺以外の観光資源についても政策に組み込む契機ともなった[35]

平成期以降

祇園祭(2022年)

1990年(平成2年)には京都文化博物館京町家展が開催され、10,000人が来場した。これに連動するようにメディアでは京町家ブームが起きた[37]。また、1993年(平成5年)には東海道新幹線・のぞみの運行開始にあわせ、東海旅客鉄道が「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンを開始する[38]。とはいえ、1994年(平成6年)の平安遷都千二百年紀念事業においても京都の観光客数は伸び悩み、翌年には阪神大震災の影響で観光客数は400万人以上も落ち込んだ[39]

京都の観光客数は、2000年代以降再び増加に転じた[40]。高畑は京都市の観光客数が上昇した行政上の理由として、1965年(昭和40年)の組織改正以来、文化観光局によって実施されていた観光政策が1995年(平成7年)に産業観光局の所轄となり、産業政策の中で重要な戦略として位置付けられたこと、1998年(平成10年)より相次いで観光振興計画が策定されたことなどを挙げている[28]

2008年(平成20年)には、京都市を訪れる観光客は5000万人を超えた[41]。この年には観光庁が設立され、国家的政策としてのインバウンドの呼び込みがはじまるが、円安ビザ要件の緩和・LCC路線の就航などによって、政府の予想を超える形で外国人観光客は増加していった[42]。京都を訪れる観光客数は2023年(令和5年)現在、2015年(平成27年)の5684万人をピークとしているが、宿泊者数は増加している[43]。2020年(令和2年)には、新型コロナウイルス感染症の世界的流行が影響して観光は著しく落ち込んだものの[44]、2023年(令和5年)には急回復し[45]、2024年(令和6年)には宿泊客数・観光消費額がともに過去最高に達した[46]

観光客の動向

推移

観光客数・宿泊者数の折れ線グラフ。1970年(昭和45年)以前の統計は自家用車による観光客を換算していない[47]

京都市を訪れる観光客数は高度経済成長、さらには交通網の整備とともに伸長したが、1975年(昭和50年)以降は、およそ四半世紀にわたって停滞が続いた。また、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけては、宿泊者は漸減している[48]。宿泊者が再び増加傾向に転じるのは、2000年代以降である[40]。2023年(令和5年)時点では、外国人観光客は増加しつつある一方で、日本人観光客の漸減が続き、年次の観光客は5000万人程度となっている[43]

また、2024年現在、京都府を訪れる観光客に占める外国人の割合はおよそ19%である[49]。外国人観光客の増加は昭和50年代には30万人台、昭和60年代には33万人台とゆるやかなものであったが、平成期には急速に増加し、1991年(平成3年)から1994年(平成6年)にかけては50万人台に到達している[50]。円安やビザ要件緩和などを背景として2015年(平成27年)ごろより外国人観光客の割合は著しく増加した[51]

属性

性別は、1975年時点では男性観光客が女性観光客よりも多かったものの、1985年(昭和60年)にはこれが逆転している。杉野圀明によれば、これは女性の経済的地位の高まりや、少子化により女性が育児に束縛されなくなったこと、女性向けの旅行企画の増加などが影響している[52]。2024年(令和6年)時点では、日本人観光客のうち男性が占める割合は34.9%、女性が占める割合は64.8%である[53]。年齢を見ると、1975年段階では30代までの若年層がほとんどであったが、これはその後逆転し、2000年(平成12年)の段階では男性で40歳以上が65.5%、女性で66.7%となる。これには修学旅行客の分散、あるいは若年層の京都に対する関心低下が影響している[52]。2024年時点で、日本人観光客のうち30代以下の観光客は全体の12.8%、40代以上は87.2%(うち60代以上が50.5%)となっている[53]

日本人観光客の出発地については、2011年(平成23年)時点では近畿地方からの出発者が多く(61.2%)、大阪府からの観光客だけで全体の27.8%を占める[54]。2007年(平成19年)時点では、平成不況の影響で日本国内について遠方からの観光客は減少しており、近郊である近畿地方からの観光客が増加していた[55]。2024年時点では、近畿地方からの観光客は全体の31.8%(うち大阪府からが11.4%)となり、関東地方からの観光客が29.2%(うち東京都からが12.3%)、中部地方からの観光客が18.7%と続く[56]

京都市内の宿泊客に占める外国人の割合は延べ人数(宿泊数合計)で66%、実人数で50%である[57]。大地域別に見た外国人宿泊客の内訳については、2024年時点でアジアからの観光客がもっとも多く(49.6%)、中国人が21.3%、台湾人が10.1%、韓国人が6.3%、香港人が3.2%を占める。それ以外の地域では、アメリカ人が15.3%、オーストラリア人が5.4%、イタリア人フランス人が3.0%、イギリス人が2.8%、スペイン人が2.7%を占める[58]。性別を見ると、外国人観光客全体のうち53.2%が男性、43.5%が女性である。また、年齢は30代までが全体の74.4%を占める[59]

目的と動向

清水寺は、京都市内においてもっとも人気を集める観光地のひとつである。

2024年時点で、日本人観光客の75.4%[60]、外国人観光客の95.9%が観光を目的として京都に来訪している[61][注釈 2]。宿泊客の平均宿泊数は、全体平均で1.69日[63]、外国人観光客平均で2.21日である[64]

日本人観光客は京都を訪問する動機となった観光資源等として、74.4%が「寺院・神社、名所・旧跡」、37.0%が「飲食」、27.3%が「散策(まち歩き)」、22.6%が「桜・紅葉等の自然」、22.1%が「買物」を挙げている[65]。また、外国人観光客は91.4%が「寺院・神社、名所・旧跡」、57.0%が「伝統文化鑑賞」、52.2%が「食事」、31.7%が「桜・紅葉等の自然」、24.8%が「京都の生活、地域の人との交流」、22.6%が「ショッピング」を挙げている[61]

『京都観光総合調査』における2024年の外国人観光客を対象とした調査では、20%以上の観光客を集めた対象は以下の通りであった[66]。2013年(平成25年)以降、京都市は日本人観光客について調査対象地域の区分を変更しており、観光地単位での統計は取られていないが、2008年(平成20年)時点では清水寺(20.8%)がもっとも人気の観光地であり、嵐山(16.2%)、金閣寺(11.4%)、銀閣寺(9.4%)、南禅寺(9.0%)、八坂神社(7.2%)がこれに続いた[67]

観光産業

京都市における観光消費額の年次総計は2024年(令和6年)現在、1兆9075億円である。うち、日本人観光客による消費額が1兆553億円、外国人観光客による消費額が8522億円を占める[68]。日本人観光客の平均消費額単価は23,355円(宿泊客平均69,801円・日帰り客平均13,232円)、外国人観光客の平均消費額単価は78,346円(宿泊客平均97,338円・日帰り客平均19,831円)である。その内訳としては日本人・外国人ともに宿泊費がもっとも多く(日本人平均27,993円・外国人平均35,976円)、日本人観光客の消費額では飲食費(6,722円)、買物代(6,573円)、市内交通費(2,519円)が、外国人観光客の消費額で買物代(24,980円)、飲食費(14,240円)、市内交通費(5,634円)がそれに続く[69]

2021年(令和3年)の経済センサスに基づき、京都府の産業構造を大分類別に見ると、宿泊業飲食サービス業の特化係数[注釈 3]が1.24となっている[70]。2023年(令和5年)時点で京都における観光産業は、市内総生産のうち製造業の次に重要な位置を占める[71]。2019年(令和元年)の統計に基づく京都市観光協会の推計によれば、京都市内の観光関連産業従事者は153,000人であり、京都市の人口の5分の1にあたる。また、京都府の経済活動に占める観光関連産業の割合は、12.4%である[72]

宿泊業

従来京都市においては歴史的伝統のある旅館、あるいは寺院参拝客・商人・大学受験生などを対象とした大衆旅館が中心であり、ホテルはほとんど存在しなかった。こうした状況は「ディスカバー・ジャパン」「いい日旅立ち」キャンペーンなどによる旅行ブームや、日本人の生活形態の変化により転換し、旅行者のニーズは旅館からホテルへと変わっていった。1985年(昭和60年)には44軒であったホテル数は、1999年(平成11年)には115軒まで増加したが、需要が供給を超過した結果、多くのホテルの経営状況が悪化し、2000年代初頭には多くの中規模ホテルが営業停止した。また、京都ホテル都ホテルといった古くから営業していたホテルも、この時期大規模資本の傘下に組み込まれている[73]

2016年(平成28年)時点で、京都市内の客室数は約3万室であり、主要な宿泊施設における年間客室稼働率は90%近くに達していた。これを商機とみなした多くの事業者が宿泊業に参入し、簡易宿所や低価格帯の施設が多く設立されたことによって、客室数は2023年(令和5年)までに6万室近くにまで達した[44]。京都市観光協会によれば、2025年(令和7年)11月時点で、京都市内の宿泊施設総客室数は推計61,447 室、客室稼働率は86.9 %である[74]

2018年(平成30年)時点で、京都市内のホテルは京都駅周辺、河原町三条、四条烏丸周辺などに、旅館は、祇園周辺や京都駅北側の東本願寺周辺、河原町通烏丸通三条通四条通に囲まれた都心部に集積している。また、簡易宿所は四条通と五条通・烏丸通と堀川通に囲まれた範囲に集積するほか、京都駅南側や西陣などにも広がる[75]

飲食業

有賀健による「食べログ」「一休.com」をもととする調査によれば、京都市におけるレストランの人口あたり集積件数は、国内の他地域と比較して際立って突出している。一方で、事業所統計における飲食店の従業員比率を見ると、この値が他の政令指定都市と比較して際立ったものとなるのは1981年(昭和56年)より後の現象である[76]。このことから、有賀は京都市における飲食店の増加は1980年代以降の、観光キャンペーンの成功や、外国人観光客の増加にともなう現象であろうと論じている[77]

脚注

参考文献

関連項目

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