東京ディズニーランド
千葉県浦安市にあるテーマパーク
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東京ディズニーランド(とうきょうディズニーランド、英語: Tokyo Disneyland、略称: TDL)は、千葉県浦安市にある東京ディズニーリゾートを構成するテーマパーク。
| 東京ディズニーランド Tokyo Disneyland | |
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| 施設情報 | |
| 愛称 | TDL・ランド(略称) |
| テーマ | ディズニー |
| キャッチコピー |
夢と魔法の王国 The Kingdom of Dreams and Magic |
| 事業主体 | 株式会社オリエンタルランド |
| 管理運営 | 株式会社オリエンタルランド |
| 面積 | 51万m2(0.51km²) |
| 来園者数 | 1,791万人(2018年度)[1] |
| 開園 | 1983年(昭和58年)4月15日[2] |
| 所在地 |
〒279-0031 |
| 位置 | 北緯35.632777777778度 東経139.88055555556度 |
| 公式サイト | https://www.tokyodisneyresort.jp/tdl/ |
アメリカのカリフォルニア州にあるディズニーランド・パーク、フロリダ州のマジック・キングダムに次ぎ3番目[3]、アメリカ国外で最初に建設されたディズニーパークで、1983年4月15日にオープンした[3][4][5]。京成電鉄と三井不動産などが出資して設立されたオリエンタルランドが所有し、アメリカのウォルト・ディズニー・カンパニーからテーマのライセンスを受けて運営されている[6]。
2023年時点における年間来場者数は1,510万人(東京ディズニーシーは含めていない)で、日本のテーマパークとしてはユニバーサル・スタジオ・ジャパンに次ぐ第2位となっている[7]。また、世界全体では、マジック・キングダム、ディズニーランド・パーク、およびユニバーサル・スタジオ・ジャパンに次ぐ第4位の来場者数となっている[7]。
園内は、ワールドバザール、アドベンチャーランド、ウエスタンランド、クリッターカントリー、ファンタジーランド、トゥーンタウン、トゥモローランドの7つのテーマに分かれた「テーマランド」で構成される[PR 1]。
歴史
オリエンタルランドの設立
1960年7月11日、千葉県浦安沖の埋め立て開発に伴い、商業地・住宅地の整備と、大規模レジャー施設の建設を目的に、京成電鉄・三井不動産および朝日土地興業の3社が出資し、オリエンタルランド社(以下、OLC)が設立された[8][9]。埋め立て工事と並行して大規模レジャー施設の計画検討が進められ、欧米の遊園地への視察が行われた[10]。その中には、アメリカのディズニーランドおよびウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへの調査訪問も含まれていた[10]。OLCはレジャー施設構想の計画策定を進める中で、ファミリーエンターテイメントを基本理念とし、幅広い世代が楽しめるディズニーランドがOLCの構想に最も適合すると判断し[11]、日本版ディズニーランドの誘致案を徐々に具体化させた[10]。そして、1973年に当時のウォルト・ディズニー・プロダクションズ(以下、米国ディズニー社)に対して正式に誘致を申し入れた[12]。OLC社長の川﨑千春は、これ以前からディズニーランドに着目して日本誘致の可能性を探っており、1961年1月に初めて同社を訪れていた。しかし当時は、同時期にヨーロッパ諸国を中心に世界各国から誘致の申し出が相次いでいたことや、奈良ドリームランドにおける著作権侵害問題などの影響もあり、米国ディズニー社は日本版ディズニーランドの建設に対して非常に消極的であった[13][14]。これに対し、OLCはディズニーランド誘致実現のため、徹底的な事業化調査やマーケティングリサーチを実施し、これを米国ディズニー社へ報告することで、同社は次第に日本進出へ関心を示すようになった[15]。
日本版ディズニーランドの誘致
当時、日本国内でディズニーランド誘致を進めていたのは、OLCのほか、富士山麓への誘致を計画していた三菱地所の2社であった[16]。三菱地所は、ディズニー映画の日本配給を担っていた東宝を通じて米国ディズニー社との交渉を進めていた[16]。1974年12月には、米国ディズニー社の首脳による現地視察が行われ、三菱地所・東宝およびOLCの双方がプレゼンテーションを実施し、候補地であった富士山麓と浦安地区の両方が視察された[17]。浦安地区の視察はヘリコプターを用いて行われ、三井不動産の本社がある新宿や京成谷津遊園、浦安地区の上空などを飛行し、予想外の航空視察に、米国ディズニー社の一行は「ワンダフル[18](すばらしい[19])」と連発した[20][21]。
現地視察から2日後、米国ディズニー社はOLCに対し「交渉の相手をあなた方に決めました」と伝達し、両社間で業務提携に関する基本合意が結ばれ、共同でプロジェクトを推進することとなった[22]。三菱地所および東宝との交渉が成立しなかった主な理由は、両社が米国ディズニー社の提示した事業条件を受け入れなかったためである。三菱地所側は土地を提供する代わりに、建設費は米国ディズニー社が負担すべきであるとの立場をとっており、これに対し米国ディズニー社側は土地や建設費は負担せず、ノウハウを提供する代わりにロイヤルティーを受け取る方式を提示しており、この隔たりが交渉決裂の主要因となった[19][23]。一方で、OLCは米国ディズニー社の提示する条件をすべて受け入れ、交渉が成立した[19]。また、富士山麓の候補地については、周辺の自然環境が人工的なテーマパークの建設に適さない上、都心から距離があり交通アクセスが不便だと米国ディズニー社が判断したためであるとされている[24]。
しかし、OLCの親会社である京成電鉄の経営悪化に伴い、従前から京成と比べて消極的な態度を取っていた三井不動産に同社の経営権が移行すると、当初合意していた「入場料の10%をロイヤルティとして支払う」という条件について、米国ディズニー社に対し5%への引き下げを打診した[25]。この方針転換により両社の関係は一時的に悪化し、提携交渉は暗礁に乗り上げる事態となったが[25]、その後の協議によって双方が妥協点を見出し、最終的にこの条件が受け入れられた[26]。ただ、その後三井不動産が事実上ディズニーランド事業から撤退したことで資金調達が困難となり[27]、OLCは千葉県の協力を得ながら金融機関による協調融資団の結成を進めることとなった[28]。このような状況下においても交渉は継続され、1979年4月30日に東京ディズニーランドの建設および運営に関する基本契約が締結された[29][30]。その後、1980年8月に日本興業銀行と三井信託銀行を幹事銀行として22行で構成される協調融資団が結成され、資金援助が行われた[31]。
パーク名称である「東京ディズニーランド」は、1977年3月23日に決定した[32]。オリエンタルランド設立当初、開発するレジャー施設の計画名称は「オリエンタルランド」であり、米国ディズニー社との交渉過程でも日米双方で「オリエンタル・ディズニーランド」と呼称されていた[33]。そのため後に制定された東京ディズニーランドのロゴマークでは、ミッキーマウスが「O(オー)」型の枠に囲まれているが、それは「オリエンタル・ディズニーランド」の名残である[33]。しかし、これでは冗長であるとOLC内で指摘があり、「ディズニーランド・ジャパン」や「東洋ディズニーランド」、「東京ディズニーランド」、「ディズニーランド2」、「ニュー・ディズニーワールド」など11の案が検討された[33]。その結果、オリエンタルランド社内の役員会議において「東京ディズニーランド」が正式名称として採択された[33]。
東京ディズニーランドの建設と開園
紆余曲折を経て、OLCは米国ディズニー社との基本契約締結に至り、事業はパーク建設の段階へと進んだ。建設および設計の総指揮には、同分野の専門家であった電通の長谷川芳郎が起用された[34]。長谷川は1979年にOLCへ入社、常務取締役・建設本部長としてパークの建設総指揮を務めることとなった[35]。当初、米国ディズニー社と交わした基本合意の中で、パークの建設費は約650億円と見込まれていた[36]。しかし、この数字には積算根拠が無く、OLC側では最低でも1,000億円はかかると見積もり、米国ディズニー社もこれを認めたことで、当初の建設計画は実質的に白紙化され、再構想が行われた[37]。
その後、1980年12月に着工、翌1981年1月3日に鍬入れ、起工式が行われた[38][39]。施工は鹿島建設、清水建設、大成建設など日本の大手ゼネコンが担当し、工区ごとに分担して進められた[40]。設計作業にあたり、米国版パークには詳細な設計図面が存在しなかったため、各社の担当者は何度も米国に赴き、施設を実測したうえで日本向けに新たな設計図面が作成された[40]。それらの設計図面は、「ドキュメントコントロールセンター(DCC)」と呼ばれる部署で集中管理され、すべての図面類をここで保管している[41]。
東京ディズニーランドの建設にあたり、OLCは米国ディズニーランドの再現を基本方針とし、そのモデルとしてフロリダのマジックキングダムが採用されていた[42]。一方で、日本向けの最適化も行われており、たとえばエントランス正面に位置するマジックキングダム版の「メインストリートUSA」は、日本の降雨量の多さに配慮し、東京版では屋根付きの「ワールドバザール」として設計されている[43]。
OLC社長・高橋の「お金がかかってもいいから、本物を作れ」という号令の下[38]、米国ディズニー社側もデザインの細部に至るまで徹底的にこだわり、一切妥協をする姿勢を見せなかった[44]。しかし、建設が進むにつれて事業費は最大で1,800億円にまで膨れ上がる試算となり、債務保証の責任を負う三井不動産は、事業費を1,300億円程度にまで抑えるようOLCに要求した[45]。しかし、敷地が埋立地であることから地盤が軟弱で、その改良工事などで事業費が膨らみ、最終的には建設工事だけで1,280億円、概算で1,800億円[46][47]以上となった[46]。また、米国版ディズニーランドでは地下にバックヤードが設けられているが、日本版では建設費の問題から同様の設備を建設することは見送られた[48][49]。米国ディズニー社も、建設費の膨大に配慮し、年間入園者数が1,000万人を下回った場合、ロイヤリティの引き下げを行うなどの妥協案を提案するなどした[50]。
建設費の膨大はあったものの、工事の遅延は発生せず[51]、1982年9月にはシンボルとなるシンデレラ城が竣工[18]、同年11月9日にはオープニング・デイト記者発表会を開催し、同日に初代「東京ディズニーランド・アンバサダー」に寺崎八重子が就任した[32]。1983年3月18日に竣工式を挙行[18]、同年4月15日に開園を迎えた[52][18]。開園当日は雨で、当初はシンデレラ城前で行う予定だったオープニングセレモニーは、場所を屋根のあるワールドバザールに移して開催された[53]。開園当日は2万6,000人のゲストが訪れた[54]。
略称の「TDL」は開園から約10年間は浸透せず、報道においても「デ・ランド」や「東京・D・ランド」といった表記を使用していた新聞社も存在した。その後、1988年4月に全国3紙(朝日・読売・毎日)の中で初めて毎日新聞が「TDL」の略称を採用し、読売新聞が同年7月、朝日新聞が1989年5月に追従した(なお、朝日新聞はその後もしばらく「デ・ランド」と併記していた)[55]。
開園時の宣伝には、ウォルト・ディズニーの友人であり、上述の奈良ドリームランドの建設にも関与したとされる大映社長の永田雅一が協力している[56]。
開園から1990年代まで (1983年~1999年)
開園初年度の入園者数は1,036万人であり、1983年5月23日に100万人[96][97]、同年9月5日に500万人[96][98]、当初目標としていた1,000万人は1周年を目前とした1984年4月2日に[96]達成した[99]。また、ゲスト1人当たりの消費額も想定を約4割上回る結果となった[99]。これは、日本特有の土産文化が影響し、多くの来園者がパーク内で商品を購入したことによるものである[99]。
開園後もリピーターの確保などを目的として追加投資が継続的に行われ[100]、1985年にはパレード「東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード」が開始され、1986年3月8日には「(旧) アリスのティーパーティー」[58]、1987年に「ビッグサンダー・マウンテン」、1989年に「スター・ツアーズ」[101]、1992年に「スプラッシュ・マウンテン」[63]などがオープンした[100]。スプラッシュ・マウンテンは当初、単体のアトラクションとして計画されていたが、米国ディズニー社の意向によりエリア開発が求められ、最終的に新たなテーマランドである「クリッターカントリー」が開発された[102]。
1988年4月15日には開園5周年を迎え、劇場「ショーベース2000」がオープンし、そこで上演されたステージショー「ワン・マンズ・ドリーム」は、当初1年間の限定公演の予定だったものの、好評のため継続上演された[103]。また、年間パスポートの販売・利用が開始[104]されたほか、12月1日にはJR東日本京葉線の舞浜駅が開業した[105][106]。
1993年4月15日には開園10周年を迎え、ショー「イッツ・マジカル!」や、パレード「ディズニー・ファンタジー・オン・パレード」が公演されたほか、新たなアトラクションとして「ビジョナリアム」、「ディズニーギャラリー」がオープンした[107]。
1996年4月15日には新たなテーマランド「トゥーンタウン」が公開された[66][67]。当初は、ディズニーの世界観を再認識させ家族連れの集客を強化するために、既存のファンタジーランドの活性化が検討されていた[108]。しかし、その過程で当時のOLC社長・髙橋が、米国ディズニーで高い人気を得ていたトゥーンタウンの導入を提案し、これを受けて若い家族連れを主なターゲットとした開発が進められた[109]。
入園者数については、1991年5月29日に1億人目の入園者が来園[110][111]、1997年7月25日に2億人目の入園者が来園した[112][113][70]。
1997年4月15には、キャプテンEOに代わる新アトラクションとして「ミクロアドベンチャー!」がオープンした[69]。
1998年4月15日には開園15周年を迎え、翌年3月19日までの期間を通じて、4シーズンに分けたスペシャルイベントが開催された[114][115]。この周年企画では、パレード「ディズニーカーニバル」やショー「ビバ! マジック」が公演された[115]ほか、15周年当日にはブロンズ像・パートナーズ(ウォルト&ミッキー)がプラザテラスに設置された[116]。
2000年代
2000年8月4日からは、ビッグサンダー・マウンテンとスプラッシュ・マウンテンにファストパスが導入された[72]。続く同年9月1日には新アトラクション「プーさんのハニーハント」がオープン[73][74]し、これに伴い「スカイウェイ」のクローズや、「アリスのティーパーティー」の現在地への移転など、ファンタジーランド全体のリニューアルが行われた[117]。また、2002年にはシンデレラ城前の広場が新しくなり、新たな石畳が敷き詰められ、パレードルートとの段差も解消された[118]。
2003年3月20日からは、イラク戦争に伴うテロ対策として、東京ディズニーシーとともに、入園時の手荷物検査を開始した[119]。
2003年4月15日には開園20周年を迎え、「Dream」をテーマとした周年企画が展開され、ショー「ミッキーのギフト・オブ・ドリームス」の公演や、同年1月25日に始まった「ディズニー・ドリームス・オン・パレード」をはじめ、様々なショーやスペシャルイベントが実施された[120]。翌2004年4月15日にはディズニー・ピクサー映画のトイ・ストーリーシリーズを題材にした新アトラクション「バズ・ライトイヤーのアストロブラスター」がオープンした[75][76][121]。
2005年7月18日には、米国ディズニーランドの開園50周年を記念して、ワールドバザールにウォルト・ディズニーの言葉が刻まれた新しいウインドーが設置された[122]。
2007年4月28日には「スペース・マウンテン」がリニューアルされ、ライドやキャストのコスチューム、ストーリー設定などが刷新された[123]。また、同年7月20日には「カリブの海賊」もリニューアルオープンし、同アトラクションを原作とする映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズのキャラクターが新たに登場するようになった[123]。
2008年4月15日には開園25周年を迎え、翌年4月14日までの期間を通じて、5ステージに分けた「夢よ、ひらけ。」をテーマとした周年企画が展開された[124][125]。パレード「ジュビレーション!」[125]や、花火「ドリームス」、ショー「スターライト・ドリームス」などのスペシャルイベントが実施された[126]。また、2008年7月8日には「東京ディズニーランドホテル」が開業した[127][79]。
2009年4月15日には、5年ぶりとなる新アトラクション「モンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”」がオープンした[128][80][129]。
2010年代
2010年8月27日に東京ディズニーランド、東京ディズニーシー合わせて5億人目の入園者が東京ディズニーランドへ来園した[130][131][132][84]。また、同年7月1日から1年間の期間限定でアトラクション「キャプテンEO」が復活し[84][82][83]、その後、キャプテンEOの継続が決定されたことに伴い、2011年5月10日に「ミクロアドベンチャー!」は終了した[133]。なお、一度クローズしたアトラクションが復活したのは、キャプテンEOが初めて[82]。
2011年1月24日に「ミッキーのフィルハーマジック」がオープンし[85][86][134]、これに伴い「ミッキーマウス・レビュー」は、2009年5月25日をもってクローズされた[PR 2]。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が発生した[135]。地震発生当時、東京ディズニーランドおよび東京ディズニーシーには合わせて約7万人が来園しており、このうち帰宅困難となった約1万1,000人がパーク内で一夜を過ごし、翌3月12日には、すべての来園者が退園した[135]。同3月18日、建物・施設の損傷は軽微であったものの、東京電力管内の電力不足を受け、営業再開時期を未定とすることが発表された[PR 3][136]。その後パークは4月14日まで臨時休園し、翌4月15日に営業を再開した[137][138][139]。再開当日には、シンデレラ城の内部を巡る「シンデレラのフェアリーテイル・ホール」がオープンした[134]。その後、同4月23日に夜間営業を再開した[140]。
2013年4月15日には開園30周年を迎え、翌年3月20日までの期間を通じて、「ハピネス」をテーマとした周年企画が展開された[141][142]。パーク内は「ハピネス・バルーン」と呼ばれる色とりどりの装飾で彩られ、パレード「ハピネス・イズ・ヒア」[143][141]や、花火「ハピネス・オン・ハイ」などのスペシャルイベントが実施された[142]。また、同年5月7日には、リニューアルのため2012年4月2日にクローズしていた「スター・ツアーズ」が「スター・ツアーズ: ザ・アドベンチャーズ・コンティニュー」としてオープンした[89][88]。リニューアルでは、映像が3D化されたことに加え、50通り以上[141]のシナリオがランダムに選択されるようになった[89]。
2014年5月29日からは、シンデレラ城でのプロジェクションマッピングを用いたナイトエンターテイメント「ワンス・アポン・ア・タイム」が公演開始(2017年11月6日まで)した[144][145]。また、同年9月8日には、開園当初から存在するアトラクション「ジャングルクルーズ」が、新たなシーンを追加した「ジャングルクルーズ:ワイルドライフ・エクスペディション」としてリニューアルオープンした[90][146][145]。
2015年7月17日には、3年ぶりとなる新アトラクション「スティッチ・エンカウンター」がオープンした[92][147]。また、前年に公開されたディズニー映画『アナと雪の女王』が記録的な大ヒットとなり、1月13日から3月20日の期間でスペシャルイベント「アナとエルサのフローズンファンタジー」が開催されたほか、「ワンス・アポン・ア・タイム」もアナと雪の女王をイメージしたシーンを追加した「ワンス・アポン・ア・タイム ~スペシャルウインターエディション~」として公演された[148][147]。
2018年4月15日には開園35周年を迎え、「Happiest Celebration!(ハピエスト・セレブレーション!)」と題した周年企画が展開された[149]。ワールドバザールでは「セレブレーションストリート」と呼ばれるプログラムが行われ、中央に設置されたモニュメント「セレブレーションタワー」を中心に、音楽とプロジェクションマッピングの演出が行われた[150]。また、パレード「ドリーミング・アップ!」や花火「ブランニュードリーム」、ナイトタイムスペクタキュラー「Celebrate! Tokyo Disneyland」などのスペシャルイベントが実施された[151]。なお、35周年当日の午前中は強風で、ドリーミング・アップ!は午後から公演が開始された[152]。アトラクションでは「イッツ・ア・スモールワールド」がリニューアルオープンし、ディズニー映画のキャラクターが登場するようになった[149][153][154]。
2019年10月12日には、令和元年東日本台風(台風19号)の影響で東京ディズニーシーと共に8年ぶりの終日休園となった[155]。両パークの休園は東日本大震災以来である[155]。
2020年代
2020年2月29日から同年6月30日にかけて、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、東京ディズニーシーとともに休園した。当初は同年3月15日までの休園を予定していたが[156][157]、その後、3月11日[158][159][160]、3月28日[161]、4月9日[162][163][164]、5月8日[165][166][167]、6月2日[168]に相次いで休園期間の継続、延長を発表し、7月1日に運営を再開した[169][170][171]。再開後は当面の間、予約制の導入や入園者数を制限する措置が取られ、ショーやパレードの中止など、感染拡大防止策が講じられた[172][170]。
2020年9月28日には、東京ディズニーランド史上で最も大規模な開発[173]が行われ、2017年にクローズしたグランドサーキット・レースウェイやスタージェットがあったエリアに[174]、ファンタジーランドが拡張、映画『美女と野獣』をテーマにしたエリアがオープンした[94]。当初は同年4月15日のオープンを予定していたが[175][176]、臨時休園により延期した[94][177]。また、同時にトゥモローランドには、ディズニー映画『ベイマックス』をテーマにしたアトラクション「ベイマックスのハッピーライド」がオープンした。翌年2021年には新たな開発エリア内でオープンを見合わせていた[178]、屋内シアターの「ファンタジーランド・フォレストシアター」がオープンした[95]。
2023年4月15日には開園40周年を迎え[179]、「ドリームゴーラウンド(Dream-Go-Round)」をテーマに様々な周年企画が展開された[180][181]。「色あざやかなハーモニーの世界へ」をテーマとしたパレード「ディズニー・ハーモニー・イン・カラー」や[181][179][180]、花火「スカイ・フル・オブ・カラーズ」が公演された[182]。
2024年7月31日には、開園時から運営していた「スペース・マウンテン」が、トゥモローランドの大規模開発のため建て替えられることに伴い、同日をもって運営を終了した[183]。新たなスペース・マウンテンは2027年のオープン予定[183]。
施設

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
園内は「冒険」「ファンタジー」「未来」などのテーマに分かれた各エリアで構成され、これらは「テーマランド」と呼ばれる[47]。アトラクションやレストラン、ショップをはじめ、植栽やゴミ箱に至るまでが、それぞれのテーマに沿った形で演出が施されている[47]。開園当初は、ワールドバザール、アドベンチャーランド、ウエスタンランド、ファンタジーランド、トゥモローランドの5つのテーマランドがあったが、後にクリッターカントリー(1992年)[100]、トゥーンタウン(1996年)[66]が新たにオープンしている。
基本的にアトラクションはアメリカ版のコピーとして建設されたが、歴代のアメリカ大統領が登場し建国の歴史などを語る「ホール・オブ・プレジデンツ」など、東京ディズニーランド開園時に導入が見送られたものもある[184]。その後、運営ノウハウを蓄積したOLCは、アトラクションに日本独自の要素を徐々に取り入れるようになり、1986年にオープンした、「シンデレラ城ミステリーツアー」(2006年クローズ)[58]もそのうちの一つである[185]。
ワールドバザール
メインエントランスから入園して最初に通過するテーマランドであり[186]、4つのブロック状の建物から構成されている[187]。それらの建物は十字状の通路で結ばれ、その上部には「オール・ウェザー・キャノピー」と呼ばれるガラス張りの大屋根が設置されている点が特徴である[187]。米国ディズニーランドおよびマジック・キングダムの「メインストリートUSA」に相当するエリアだが、両パークとは異なり屋根が設けられている点は、雨が多い日本の気候事情によるものである[43]。建物のファサードはアメリカにおけるヴィクトリア朝時代、すなわち19世紀後半から20世紀初頭にかけての「古き良き時代」をイメージした建築様式で統一されており[188]、内部にはショップやレストランなどが配置されている[187]。
アドベンチャーランド
アメリカ南部のニューオーリンズをイメージした街並みや、熱帯の木々が広がるテーマランドであり[189]、アトラクションには、カリブ海を支配した海賊たちの抗争や略奪を描く「カリブの海賊」、動物たちや先住民が暮らすジャングルを探検する「ジャングルクルーズ:ワイルドライフ・エクスペディション」、そして蒸気機関車で3つのテーマランドと恐竜が生きる時代を巡る「ウエスタンリバー鉄道」などがある[190]。
ウエスタンランド
19世紀後半の西部開拓時代のアメリカをテーマとしたテーマランドであり[191]、エリア内には全長約900メートルの「アメリカ河」がある[192]。この河は水流こそないものの河という設定で、グランドオープン時にはアメリカのミシシッピ川から汲み取った水が一杯注がれ、同川がモデルとなっている[192]。このアメリカ河を航行するアトラクションが「蒸気船マークトウェイン号」で、全長約34メートル・4階建ての大型船「マークトウェイン号」に乗って河を一周する[193]。また、1987年にオープンした「ビッグサンダー・マウンテン」は、ゴールドラッシュが終わった廃坑という設定の赤茶色の岩山を、鉱山列車が走り抜けるといったアトラクションで、鉱山列車が最高時速40キロメートルで[PR 4]走り抜けるアトラクションである[194][195]。
クリッターカントリー
ディズニー映画『南部の唄』をモチーフにしたエリアで[196]、、アメリカ河のほとりに広がる小動物(クリッター)たちののどかな田舎を舞台としている[197]。1992年にアトラクション「スプラッシュ・マウンテン」などとともに6番目のテーマランドとしてオープンし[196]、スプラッシュ・マウンテンでは丸太のボートに乗ってブレア・ラビットと「笑いの国」を目指す旅に出るが、道中でブレア・フォックスとブレア・ベアの罠をかわしながら進み、最後には最大傾斜45度・最高時速62キロメートルで滝壺へ急降下する[196][198]。
ファンタジーランド
ディズニー映画や西洋のおとぎ話をモチーフにしたアトラクションが集まるエリアで、中世ヨーロッパを思わせる景観が特徴であり、園内のシンボルである「シンデレラ城」もここに位置する[199]。アトラクションには、『シンデレラ』『ピノキオ』『白雪姫』『ふしぎの国のアリス』『美女と野獣』など、往年のディズニー作品をモチーフにしたものが多い。
トゥーンタウン
ミッキーマウス、ミニーマウス、ドナルドダック、グーフィー、チップとデールなど、ディズニーアニメーションのキャラクター(トゥーン)たちが暮らす街を舞台としたエリアである[200]。1996年に7番目のテーマランドとしてオープンし[201][66]、主に若い家族連れをターゲットとして開発された[109]。エリアは、トゥーンたちが暮らすミッキーアベニュー、公共施設があるトゥーンスクエア、オフィスや店が立ち並ぶダウンタウン・トゥーンタウンの3つの区域から構成される[202]。
トゥモローランド
未来のテクノロジーを結集して作られたという設定のエリアで、シャープなフォルムの建物や整然とした植栽が立ち並ぶ、未来的な空間が広がっている[203]。主なアトラクションには、3D映像で宇宙旅行へ飛び立つストーリーが展開される「スター・ツアーズ:ザ・アドベンチャーズ・コンティニュー」、映画『モンスターズ・インク』を題材とし、サリーとマイクが人間の女の子ブーを喜ばせようと開催したかくれんぼ大会に参加し、隠れているモンスターたちのMマークにフラッシュライトを当てて探し出す「モンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”」、映画『ベイマックス』を題材とし、天才少年ヒロが開発したケアロボットにそっくりなロボットが操縦するビークルに乗り込み、縦横無尽に駆け回る「ベイマックスのハッピーライド」などがある[204]。
エンターテイメント
サービス
園内では、東京ディズニーリゾート・アプリを通して、アトラクション・ショップ・レストランの整理券予約システム「スタンバイパス」や、アトラクション、キャラクターグリーティング、ショーの予約システム「エントリー受付」、有料のアトラクションの時間指定予約サービス「ディズニー・プレミアアクセス」、レストランの事前予約システム「プライオリティ・シーティング」などのサービスが導入されている[PR 5]。
東京ディズニーランドでは、2000年8月4日から「ビッグサンダー・マウンテン」と「スペース・マウンテン」に「ディズニー・ファストパス」が導入された[205][206]。2001年9月4日の東京ディズニーシー開園後は同パークにも導入され[207]、その後も対象施設の拡大が進み、2019年時点では、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーの両パークを合わせて18のアトラクションに導入されていた[208]。同年7月23日には、ディズニー・ファストパスをスマートフォンで取得できるサービスが開始されたが[209][210]、新型コロナウイルス感染症の感染拡大によりディズニー・ファストパスのサービスは休止された[211]。
一方、感染拡大対策として、 2020年9月頃からアプリ上で施設利用時間を指定する整理券システム「スタンバイパス」の提供が開始され、その後は東京ディズニーランドおよび東京ディズニーシーの両パークで対象施設が拡大していった[212]。その後、2022年5月19日には有料のアトラクション時間指定予約サービス「ディズニー・プレミアアクセス」が導入され[213]、2023年6月7日にはディズニー・ファストパスの終了が発表された[211][214]。さらに、ディズニー・ファストパスに代わる形で、同年7月26日から「プライオリティパス」が導入された[215]。プライオリティパスは東京ディズニーリゾート40周年記念の期間限定とされているが、終了時期は明示されていない[215]。
景観
園外には資材搬入路や倉庫、従業員用の食堂といった、いわゆる「バックヤード」が広がっているが、園内の空間デザインは「非日常」をコンセプトとして統一されているため、園外の景観が視界に入らないよう、外周部に土手を築き樹木を植えるなどの工夫が施されている[216]。これらの植栽には海から吹く潮風を防ぐ役割もある[217]。そのため、通常は園内からバックヤードが見えることはないが、例外的にウエスタンリバー鉄道の車窓からバックヤードの道路が一部見える箇所が存在する[218]。しかし、この道路には自動車に対する一時停止の看板が設置され、通過時には汽車の有無を確認するよう義務づけられているなど、来園者に園外の「現実」を感じさせないための工夫が徹底されている[218]。また、バックヤードに面していない園内のレストランへ食材を搬入するために、園内には数本の地下トンネルが設けられており、これも来園者に現実を感じさせないための工夫の一つである[219]。
オフィシャルスポンサー
東京ディズニーリゾートでは、企業が園内施設のスポンサーとなり、広告宣伝や販売促進の場としてパークを活用できる「オフィシャルスポンサー」制度を導入している[PR 6]。2025年12月時点での一覧は以下の通り[PR 7]。
過去の主なスポンサー
| 企業名 | 施設名(期間) |
|---|---|
| そごう | イッツ・ア・スモールワールド(1983年4月15日 - 2008年4月15日) |
| 日産自動車[223] | スプラッシュ・マウンテン(1992年10月 - 2006年9月3日[224]) |
| 森永製菓 | キャッスルカルーセル(1983年4月15日 - 2006年9月3日[224]) |
| 日本ヒルズ・コルゲート | ペットクラブ(2001年3月14日 - 2006年9月3日[224]) |
| 日本水産 | 蒸気船マークトウェイン号(1983年4月15日 - 2006年9月3日[224]) |
| セイコー | ニューセンチュリー・クロックショップ(1983年4月15日 - 2006年9月3日[224]) |
| セコム | ホーンテッドマンション(1998年3月20日 - 2003年3月20日) |
| ブリヂストン | グランドサーキット・レースウェイ(1983年4月15日 - 2016年4月1日) |
| ニチレイフーズ | シアターオーリンズ(- 2017年8月22日) |
| 富士写真フイルム | マジックカーペット世界一周 サークルビジョン360° |
| ビジョナリアム | |
| 日清製粉 | パークサイドワゴン |
| カフェオーリンズ | |
| ドール・フード・カンパニー | スクウィーザーズ・トロピカル・ジュースバー |
| 三井ホーム | アリスのティーパーティー(1990年6月[225] - 2015年7月) |
事件・事故
1980年代
1980年4月、 トム・ソーヤ島で幼児が岩場から転落し、頭蓋骨骨折の重傷。開園後初の重大事故であったという。その後も同種の事故が発生したため、問題の岩場は改修が重ねられた[226]。
1984年3月18日、駐車場内を歩いていた3歳の幼児(毎日新聞の報道[227]では4歳)がマイクロバスに跳ねられ即死する事故が発生[226][227]。開園後初の死亡事故となった[226][227]。
1984年10月、アトラクション「スペース・マウンテン」に乗車した女性が意識不明となり、病院への搬送後死亡。死因は急性心不全[226]。また、同アトラクションでは、1987年6月、停止後に最前列に座った男性が立ち上がらず、担架が運び込まれるも脳溢血でほぼ即死だったことが判明した[228]。
2000年代
2003年12月5日、 アトラクション「スペース・マウンテン」において走行中、車軸が折れ車両の脱線事故が発生[229][230]。ゲスト12人が乗っていたがけがはなかった[229][230]。原因は1995年9月に車軸の太さを変更したが、2002年8月にそれ以前の古い設計書を添えて業者に発注してしまったため、仕様に合致しないサイズの車軸が納品・使用され、車軸と軸受け部に規定外の隙間が生じた結果、カーブの際の車軸のブレで強度を超える負荷が生じたためである[231][232][233]。事故発生後はクローズされ、2004年2月18日に再開した[234][235]。
2007年1月18日、レストラン「イーストサイド・カフェ」にて提供された前菜「カプレーゼ(モッツァレラチーズとトマトの前菜)」のうち、9食に賞味期限が前日となっているモッツァレラチーズを使用していたことが同日14時10分に判明。OLCは、判明後ただちに提供を一時中止し、新たに賞味期限内のチーズが納品されたことにより提供を再開し、この事実を翌1月19日に公表した[236][237][PR 33]。OLCの調査によると、原因は納品担当者が当日の日付を勘違いしたことに加え、店舗で本来行われるべき日付確認および記録簿への記載を行わないまま使用したためである[236][237]。
2007年12月9日18時10分頃、停電によるシステム障害が発生し、「スペースマウンテン」など25のアトラクションが一時停止し、順次復旧するも閉園時間までに3つのアトラクションが再開できない事態となった[238][239]。ショップやレストラン、エンターテイメントプログラムに影響はなく通常通り実施された[238][239]。なお、事故原因は11月に行った変電所の移転作業中に配電システムの接続不備があったため、変電所内の電流が不安定になり、電気使用量が多くなった同日夜に配電先の圧縮空気製造機器が停止、アトラクションの空圧が喪失したことにより一斉に複数のアトラクションで非常停止機能が実行されたものであった[240]。
2008年1月3日14時30分頃、アトラクション「スイスファミリー・ツリーハウス」3階から出火。17平方メートルを焼いて消し止められた。周辺にいたゲスト100人が避難し、現場が一時閉鎖された。ゲストやキャストにけが人はなく、原因は不明。この小火騒ぎは、パーク運営時間中にアトラクションで発生した初めての火災事故である[241][242]。
2008年1月8日14時20分頃、「ディズニー・ドリームス・オン・パレード"ムービン・オン"」の公演中にフロートの支柱が折れ、装飾物が約3メートルの高さから地面に落下した。見物のゲストらにけがはなかった。このフロートは全17台のフロートのうち1台で、鉄製の支柱(直径約14センチ)を固定している金具が破断し、支柱と先についた惑星を模した強化プラスチック製の球体9つ(計約300キロ)が落ちた[243]。原因はフロートの定期点検の際、フロートの制作会社の資格のない従業員が点検を行ったために適正に行われず、結果この段階であったであろう金具の金属疲労による亀裂を見逃したためである[244]。この事故にともない、「ディズニー・ドリームス・オン・パレード"ムービン・オン"」と「東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード・ドリームライツ」の全フロート(計46台)の緊急点検のため、11日まで[245][246]の公演を中止し、安全点検が行われた。
2008年3月27日から4月19日にかけて、賞味期限切れの商品「明治ベビーフード赤ちゃん村麦茶」4個を園内で販売した。従業員のチェックミスが原因だった[247][248]。
2010年代
2013年5月17日、レストラン「キャプテンフックス・ギャレー」で、冷凍食品などに使われている紅ズワイガニを「ズワイガニ」と誤表記して販売していたと公表[249]。
2017年3月16日、園に併設された下水処理施設で乳児の遺体が発見[250][251]。身元不明のため、行旅死亡人として、遺体を火葬に付した上で浦安市にて遺骨を保管している旨が同年7月に浦安市長から官報にて公告された[252]。
2020年代
2022年12月13日15時45分頃、当時行われていたパレードに乱入し、公演を妨害しイベントを約6分間中断させたとして、千葉県内在住の男が威力業務妨害の疑いで千葉県警浦安署に逮捕[253]。その後、男は不起訴となった[254]。
2023年12月2日、同年11月から行われているパレード「ディズニー・クリスマス・ストーリーズ」の中でトナカイの着ぐるみを着たキャラクターがミニーマウスに近づいた上でミニーのスカートをめくり上げている様子を撮影した動画がX(旧・Twitter)に投稿され、批判が殺到した。OLCは報道機関の取材に対し、この事実を確認した上で「一部の来場者を不快な気持ちにさせたことをお詫びします」とのコメントを出した[255][256][257]。
2024年5月16日、当時修学旅行の引率中だった山梨県甲府市の小学校男性教員が来園中の女性に対してわいせつ行為を行った疑いがあるとして、不同意わいせつの疑いで千葉県警浦安署に逮捕[258][259]。
2025年10月21日、アトラクション「美女と野獣“魔法のものがたり”」に乗車していた男児の首に安全ベルトが掛かり怪我をする事故が発生[260][261]。
参考文献
- 粟田房穂、高成田享『ディズニーランドの経済学』朝日新聞社、1984年8月。doi:10.11501/12059829。
- 長谷川芳郎『「魔法の国」のデザイン:東京ディズニーランドが拓く新時代』日本経済新聞社、1984年11月。doi:10.11501/12057090。
- 上澤昇「「東京ディズニーランド」オープン後の経過」『Report leisure』、レジャー・マーケティング・センター、1984年、doi:10.11501/2862940。
- 野口恒『「夢の王国」の光と影 : 東京ディズニーランドを創った男たち』ティビーエス・ブリタニカ、1991年12月6日。doi:10.11501/13330537。
- 堀貞一郎『"感動"が人を動かす : 東京ディズニーランドの成功を支えた名脇役たち』竹井出版、1992年4月。doi:10.11501/13156077。
- 浦安調査隊 編『東京ディズニーランド(裏)マニュアル』データハウス、1994年12月。doi:10.11501/13162753。
- 加賀見俊夫『海を超える想像力 : 東京ディズニーリゾート誕生の物語』講談社、2003年3月20日。ISBN 4-06-211722-3。
- ディズニーファン編集部 編『東京ディズニーリゾート クロニクル35年史』講談社、2018年6月7日。ISBN 978-4-06-512038-5。
- 木下千寿『東京ディズニーリゾート 完全ガイド 2021-2022』講談社〈Disney in Pocket〉、2021年5月28日。ISBN 978-4-06-523432-7。
- ディズニーファン編集部 編『東京ディズニーリゾート クロニクル40年史』講談社、2023年6月27日。ISBN 978-4-06-512038-5。