人民電車事件

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1949年6月10日に国労が走らせた「人民電車」

人民電車事件(じんみんでんしゃじけん)は、1949年昭和24年)6月、日本国有鉄道労働組合(国労)が、行政機関職員定員法による人員整理に反対し、「人民電車」と呼ばれる運賃を徴収しない電車を強行的に走らせたストライキ事件である。

冷戦下の1949年(昭和24年)、GHQによる日本の占領政策は「逆コース」と呼ばれる転換期を迎えていた。GHQの方針は日本の非軍事化と民主化から、経済的自立と冷戦下における反共の防波堤化へと重点を移し、勢力を拡大していた戦闘的な労働運動は排除すべき対象となっていた。

1949年5月、ドッジ・ラインの要請に応える形で行政機関職員定員法が成立した。これにより全公務員の定数が法的に固定され、超過分の削減が義務付けられた。特に国鉄における削減目標は約9万5千人に達し、これは全削減対象の約3割を占める規模であった[1]。国鉄労働組合はこれを単なる雇用調整ではなく、労働運動に対する政治的攻撃(レッドパージ)であると認識し、激しく反発した[1]

1949年6月1日、運輸省鉄道総局公共企業体の「日本国有鉄道」に改組された。これに伴い国鉄職員には「公共企業体等労働関係法」が適用され、同法第17条によりストライキ等が全面的に禁止された[2]

当初、国労は安全規則を厳格に遵守することで業務を遅滞させる「順法闘争」を展開していた。しかし、9万5千人の解雇が現実化する中で、より政治的な圧力を持つ戦術として「人民電車」が採用された。

人民電車

6月10日は国労中央闘争委員会による実力行使の集中日であり、当局側が警察力を投入して鎮圧を図ったことで大規模な衝突が発生した。東神奈川電車区では、早朝から組合員が電車の出庫を阻止しようとピケラインを形成。神奈川県警の警備隊が導入され、激しい衝突が生じていた。その日の午前11時、闘争委員長ら10人の解雇が発表され、同時にサイレンが鳴り響いた[3]

6月10日午後6時22分、労組管理の東神奈川赤羽行きの「人民電車」第一号が発車した。この電車の正面には「人民電車」と白いペンキでかかれ、窓には赤旗をなびかせていた。「国鉄当局の収入を断つ」目的と、「乗客へのサービス」という名目で、改札を開放し、運賃を徴収せずに乗客を乗車させた[3]。その後、人民電車は京浜間を往復した[4]

その翌日6月11日、第二回目の人民電車が運行された[5]。東神奈川電車区発、京浜線赤羽行き三両編成と、横浜線八王子行き六両編成が運行された[5]。しかし、ほどなく電源を切られ、ストが終了した[5]

社会的影響と結末

脚注

関連項目

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