逆コース
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第二次世界大戦で敗北した日本は、1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)まで、ポツダム宣言と降伏文書に基づき連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年(昭和22年)に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしたいアメリカ政府の思惑で、この対日占領政策は転換された。GHQのポツダム命令(「公職追放令」「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」など)は、前身を含めて占領初期には非軍事化・民主化政策を推進したが、占領後期には社会主義運動を取り締まるようになった。
この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採った。1949年(昭和24年)の中華人民共和国の誕生や、翌1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発以後に行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージにより、保守勢力の勢いが増した。
総司令官マッカーサー、民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスはこの対日政策の転換に反対したが、本国の国務省が転換を迫ったという[7]。この転換は、1948年(昭和23年)に設立されたアメリカ対日協議会の圧力による。
なお、同年にはヨーロッパでも反共政策がとられている。ナチス関係者がいた国際決済銀行の廃止が立ち消えとなり、反共政策としてマーシャルプランが実施されている。
「逆コース」といわれるもの
- 1945年
- 1947年
- 1948年
- 1949年
- 1950年
- 1951年
- 1952年
- 1955年
- 1956年
- 自治庁、建設省などを統合する内政省設置法案を提出(内務省復活の動き)[31]。(自治省#「内政省」設置法案の攻防参照)
- 地方教育行政の組織及び運営に関する法律が施行されたことで教育委員会法が廃止された[32]。
- 1960年
- 1963年
- 臨時行政調査会(第一次臨調)第1専門部会第1班の報告書に、自治省と警察庁を統合して、自治公安省または内政省を設置し、国家公安委員会を外局(行政委員会)とし、自治公安大臣または内政大臣が国家公安委員会委員長を兼務することが盛り込まれた(内務省復活の動き)[34][35]。