伊場遺跡
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| 伊場遺跡(伊場遺跡群) | |
|---|---|
復元された高床倉庫 | |
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| 種類 | 環濠集落・古代官衙跡 |
| 所在地 | 静岡県浜松市伊場ほか |
| 座標 | 北緯34度41分42.7秒 東経137度42分46.6秒 / 北緯34.695194度 東経137.712944度座標: 北緯34度41分42.7秒 東経137度42分46.6秒 / 北緯34.695194度 東経137.712944度 |
伊場遺跡(いばいせき)または伊場遺跡群(いばいせきぐん)は、静岡県浜松市中央区伊場にある弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡。浜松駅西方の、遠州灘沿岸低地に複数形成された砂丘列上に位置する低湿地遺跡である。出土品は国の重要文化財に指定され、出土木簡は国の重要文化財への指定が答申されている(官報告示を経て正式指定となる)[1]。
弥生環濠集落
伊場遺跡群と古代官衙
伊場遺跡の周囲2キロメートル四方には、梶子遺跡・梶子北遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡・中村遺跡・九反田遺跡・三永遺跡がひろがっており、それぞれ数次の発掘調査が行われている。伊場遺跡を含めたこれら8遺跡は伊場遺跡群と総称され、調査の進展により、奈良時代から平安時代初期にかけての地方官衙である、敷知郡衙(郡家)と栗原駅家跡であることが解ってきた[6]。
前述の「伊場大溝」は、遺跡群内を蛇行しながら流れており、流路内やその周辺から大量の奈良・平安時代の遺物が出土し、その中には紀年銘資料の木簡も含まれていた。最初に発見された木簡は1970年(昭和45年)10月の伊場遺跡第3次調査で発見されたもので、「乙未年」(695年:7世紀末)の銘があった。発見当時、地方官衙から大宝令施行(701年:8世紀初頭)以前の木簡が出土するとは考えられていなかったため、にわかには信じられず議論を呼んだ[7]。
他に「己亥年五月十九日渕評竹田里人」(文武天皇3年、699年)と記されたものがある。「評」は「コオリ」と読み、7世紀中葉の孝徳朝頃から8世紀初頭の大宝令施行(701年)に至るまで実施され、大宝令施行後に「郡」となった地方行政単位で、評督(ひょうのかみ)・評助督(ひょうのすけ)が置かれた。「渕評」は「フチノコオリ」と読め、後の敷知郡にあたる。2018年(平成30年)現在、確認されている最古のものは梶子遺跡出土の「己卯年」(679年)銘、最新のものは伊場遺跡出土の「延長2年」(924年)銘という[8]。
木簡のほか、土師器や須恵器、瓷器(灰釉陶器・緑釉陶器)が出土している。それらの中には墨書土器があり、「布知厨」(郡衙の給食施設)や「少毅殿」(軍団の次官)・「栗原駅長」(駅家の長官)等の墨書があった。他に、稲籾を模したとみられる絵の内側に「稲万呂」という人物名を墨書した須恵器が存在する。これは伊場遺跡・梶子遺跡・城山遺跡・鳥居松遺跡から計19点出土しており、鳥居松遺跡で特に多く12点出土している。稲万呂がいかなる人物かは不明であるが、「上殿」と書かれた須恵器も出土しており、郡衙関係者の中でも有力者であったと考えられている[9][10]。
須恵器は静岡県湖西市の湖西窯産が大半を占め、瓷器では愛知県の猿投窯産が多かった。これらは紀年銘のある木簡や、鋳造年代の明らかな銭貨[注 2]と共伴出土したことにより、絶対年代の根拠が得られ、湖西産須恵器の編年が構築され、またそれまで10世紀代と考えられていた灰釉陶器の出現時期が9世紀前半に遡ることがわかり、瓷器の編年も見直された[11][12]。
遺構では、梶子北遺跡から平安時代前半(10世紀前半)に位置付けられるコの字形に整然と並んだ掘立柱建物跡が検出され、当時期の郡庁跡と推定された。奈良時代の郡庁遺構は見つかっていないが、城山遺跡から木簡の削り屑や唐三彩の陶枕、銅製壺鐙などの特殊な遺物が出土したことから、当遺跡内が有力視されている[11][13]。
現在
文化財
アクセス
- 浜松駅バスターミナル5のりばより、20志都呂宇布見線「宇布見 山崎行き」「イオン志都呂 舞阪駅行き」に乗車し、「伊場遺跡入口」バス停下車。


