住吉山手
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地価
元は住吉町池床・山下・松本・川向・繩手下・手崎・渦森・丸山・井出口・安場・焼ヶ原・西谷山・観音林・小阪山・牛神東・小林・堂ノ本、・落合・荒神山・鍋島・九重ヶ坂・赤塚山の各字および住吉鴨子ヶ原町一~三丁目、御影町御影、御影町郡家の各一部だった。1~9丁目が存在し、4丁目12番50号・13番1~12号・17番が元・御影町域で御影中学校の学区。阪急沿線だが域内に駅は存在しない。
北東は住吉川の支流西谷川を挟んで住吉台、東は本流住吉川を挟んで西岡本、南は阪急線を挟んで住吉本町、南西は御影山手、西は鴨子ヶ原、北東は渦森台、北は灘区六甲山町の元東灘区の住吉学園保有林だった西谷山にそれぞれ隣接する。
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、住吉山手3-1-9の地点で24万7000円/m2となっている[1]。
歴史
1丁目近辺は村制時代の観音林区であり、かつては慈明寺という禅宗の、堂塔伽藍が整った大寺院があったが、永正元年(1504年)に「慈明寺流れ」と呼ばれる大洪水で流された。
その後、天文年間に観音堂が建てられたが、天文14年(1545年)に再び洪水が起こり、観音像は堺の海岸に流れ着いたという。観音堂の跡は雑木林中に残っていたため、明治以後観音堂のあった林として観音林という字が付いた。
戦前の観音林地区には、武藤山治(鐘淵紡績)、和田久左衛門(鴻池銀行)、神社柳吉(倉敷紡績)、野村元五郎(野村銀行)、乾新兵衛(乾汽船)、広海二三男(広海汽船)、武田長兵衛(武田薬品工業)、弘世助三郎(日本生命保険)ら、財界人が邸宅を構え、阪神間モダニズムの発信地となった[2]。戦後は旧乾邸などを除いてこれらの邸宅は姿を消したが、現在でも広い敷地の戸建てと低層のマンションの混在する閑静な住宅地となっている。
北部の5~8丁目は赤塚山と呼ばれる丘陵地帯で、戦前に住宅地として切り拓かれ、1938年に兵庫県師範学校が御影町から移転した[3]ことを契機に文教地区として発展し、戦後は文教地区に指定されている。1949年に兵庫師範学校は新制の神戸大学教育学部へと転換し[4]、1968年に現在の六甲台キャンパスに移転したが[5]、学生寮や附属学校はこの地に残った。教育学部の跡地には神戸市立赤塚山高等学校が開校したが、1998年には神戸市立神戸商業高等学校と統合して神戸市立六甲アイランド高等学校となり移転[6]、跡地はマンションなどの住宅地になった。赤塚山の由来は、土色が赤いから、または梵語で供養を意味する「閼伽(あか)」から、あるいは石器・土器・銅鐸を出土する古い土地だから塚(古墳)があったなど多様な意見があるがどれも決め手に欠ける。

