佐々久 (西洋史学者)
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| 人物情報 | |
|---|---|
| 生誕 |
1911年5月28日 朝鮮 京城府大和町[1] |
| 死没 |
1999年7月8日(88歳没)[2] |
| 出身校 | 京都帝国大学文学部 |
| 学問 | |
| 研究分野 | 西洋史 |
| 研究機関 |
熊本短期大学・熊本商科大学 (いずれも現・熊本学園大学) |
| 指導教員 | 原随園[3] |
| 学会 | 日本西洋史学会、史学研究会[4] |
| 主な受賞歴 | 勲四等旭日小綬章(1983年) |
佐々 久(さっさ ひさし、1911年5月28日 - 1999年7月8日[2])は、日本の西洋史学者、教育者。熊本学園大学名誉教授[2]。朝鮮京城府大和町生まれ[1]。京都帝国大学文学部史学科卒業後、京城の高等女学校で教員生活を始める[1]。第二次世界大戦後は父の故郷である熊本県で熊本師範学校教授、熊本短期大学・熊本商科大学(いずれも現・熊本学園大学)教授、熊本商科大学付属高校の校長などを務めた[5]。1983年、勲四等旭日小綬章受章。
旧制五高、京都帝大を経て京城で教員となる
1911年(明治44年)5月28日、朝鮮京城府大和町に佐々正之(まさし[6])・トキ夫妻の四男として生まれる。兄3人、弟1人、妹2人の7人きょうだいだった[1]。父・正之は熊本藩士・佐々陸助(むつすけ[7])の四男として幕末の熊本に生まれたが、結婚後に京城に移ってジャーナリストなどを務めており、久を含む7人きょうだいは皆京城で生まれた[1]。佐々家は祖父・陸助の代まで代々熊本藩士であり、戦国武将、佐々成政の末裔であると伝えられる家系であった[8]。久が生まれたときにはすでに故人だったが、伯父(父の兄)の佐々友房(1854-1906)は帝国議会の初代衆議院議員などを務めた人物だった。
京城日出小学校卒業。京城中学校在学中の1928年に父・正之が亡くなったが、一家は京城にとどまった。1929年に同校を卒業すると、父の故郷である熊本市の旧制第五高等学校文科に進学[1]。五高在学中に油絵を始めたことがきっかけでギリシア美術に魅せられ、ギリシア文化史の研究を志すようになった[3]。
1933年に旧制五高を卒業。同年、京都帝国大学文学部史学科に入学し、『ギリシア史研究』などの著書があった西洋史学者の原随園の教室に入る[3]。西洋史を専攻し1936年3月卒業。しかし卒業のころから体調を崩し、研究室の副手は辞退せざるを得なかった[3]。
京城に戻り、京城第二高等女学校で教員生活を始める。続いて京城公立工業学校の教員となる。1943年、京城公立農学校の校長野村稔の娘、由喜と結婚。なお、きょうだいの中では久のほかに長兄の佐々亀雄(のちに熊本工業大学名誉教授)が旧制五高に進学しており、東京帝国大学文学部を1929年に卒業して朝鮮公立高等普通学校で教員となっていた。[1]
戦後、熊本で西洋史研究と教育に携わる
第二次世界大戦後は妻・由喜の実家があった高知、次いで熊本に居を移す[9]。研究室に戻ることを京大助教授だった鈴木成高に相談したが、断念[3]。1946年、熊本県立人吉中学校(現・人吉高校)の教師となり、翌1947年、教育現場を指導・監督する熊本県視学官となる。1948年、熊本師範学校教授。1949年、熊本語学専門学校教授。同校が1950年に熊本短期大学に改組され、同大助教授となった。1954年、熊本短大の系列校として熊本商科大学(現・熊本学園大学)が設立され、その助教授となる[5]。熊本語学専門学校の教授となって以来、西洋史研究者としてはイギリス史研究の道を模索し、1952年には「イギリス初期資本主義時代における工業経営の問題 特にM.ドッブの見解を中心に」(『熊本短大論集』)を発表。ただ、熊本短大・熊本商大では経済史の講義を任されることが多かった[3]。1955年、熊本短大教授。1956年、熊本商大教授。この時期の著書に『西洋近代史序説』(1954年)、『近代史の諸問題』(1956年)などがある。
熊本短大の助教授時代の1950年7月には、熊本女子大学(現・熊本県立大学)学長の北村直躬を所長とする郷土文化研究所の発足メンバー(所長を含め所員12名)に名を連ねている[10]。これは北村が当時熊本にあった3つの文科系大学(熊本女子大学、熊本大学、熊本短期大学)の研究者に呼びかけて発足したもので、熊本短大からは佐々久と丸山学が所員となった[※ 1]。もっとも、発足時の所員の一人であった熊本女子大学の乙益重隆によれば、郷土文化研究所は資金が集まらず幾年も経たないうちに「自然解消」となってしまった[11]。その後は熊本女子大学の圭室諦成、乙益ら数名が「熊本女子大学郷土文化研究所」として活動を続け、『熊本県史料集成』(1952〜1959年、全15巻)を出版した。
久は熊本短大・熊本商大の教授を務めながら、1963年から6年間、初代校長の丸山学のあとを受けて熊本商科大学付属高校(1959年創立)の第2代校長を務めた[5]。1967年に熊本商大の商学部経済学科が経済学部として新たに開設されると、その記念論文集(1969年)に「レーニン革命と一国社会主義の道」を発表。この時の肩書は熊本商大の教養部教授。1980年、定年退職を迎え、熊本商科大学名誉教授となる(大学の改称によりのちに熊本学園大学名誉教授)[5]。定年にあたり著書『現代の世界』を刊行した。『熊本商大論集』の自身の退職記念号(1982年)に寄せた短い自叙伝はこう締めくくられている。「ロマン香り高き古典ギリシアから、生臭いわれわれの時代まで、はるけくも長い旅をしたものである」[3]。
熊本大学、熊本女子大学(現・熊本県立大学)の非常勤講師も務めた。1983年、勲四等旭日小綬章受章。1985年から3年間、熊本県明るい選挙推進協議会会長の任にあたった[5]。1999年(平成11年)7月8日、心筋梗塞のため死去[2]。88歳。