佐伯経範

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 天喜5年(1057年11月[1]
改名 公俊、経範[2]
 
佐伯 経範
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 天喜5年(1057年11月[1]
改名 公俊、経範[2]
官位 従五位下、右馬助兵庫助鎮守軍監[2]
主君 頼信?、頼義
氏族 藤原北家秀郷流、佐伯氏波多野氏[3]
父母 父:藤原公光、母:佐伯経明の娘[4][5]
兄弟 公脩公清経範公季公郷[4]
経秀、公経、俊兼[3][6]
テンプレートを表示

佐伯 経範(さえき の つねのり)は、平安時代中期の武士波多野氏の祖[3]

尊卑分脈』『系図纂要』などの諸系図は経範の父を藤原秀郷の後裔である相模守公光とする。佐渡守公行を祖に持つ経範の兄弟の多くはその官名にならって佐藤氏を称し、俗名を佐藤義清といった西行や、鎌倉幕府の重臣となった佐藤業時伊賀氏源義経郎党となった佐藤継信忠信兄弟はいずれも経範の兄弟の子孫とされている。経範の生母は佐伯氏で、経範が藤原氏でなく佐伯氏を称したのは母方のを称したためであるとされている[4][7][5]

もっとも系図上における経範の兄弟はいずれも父祖以来の「公」の字を偏諱として持つが、経範だけは持たない。また母を大江氏とする経範兄弟の公季について、『続群書類従』所収「秀郷流系図」が佐伯氏の祖としているという矛盾が見られる。そのため経範を相模守公光の子とするのは東国の名族である藤原秀郷の子孫に位置づけるための後世の付会であり、実は別の氏族であるという見解も存在する。経範とその子孫である波多野氏が所領とした相模国余綾郡幡多郷は渡来系豪族秦氏が経営したことに因むといわれ、実際に経範が活動した時期の国司に秦氏の名が見える。そのため本来秦氏だったものがより名高い武門の後裔を称するために秀郷流藤原氏の末裔と記されるのに至ったのではないか、という[8][7]

活動

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI