佐藤虎清
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版元としての活動
虎清は、明治5年(1872)7月に東京府浅草区三筋町(現、東京都台東区三筋)で佐藤壁紙製造場を創業。明治23年(1890)に開催された第3回内国勧業博覧会にも出品した経験がある。[4][5]三筋町と言えば、東三筋54番地には、斎藤茂吉の養父・斎藤紀一が開業した浅草医院があり、茂吉は明治29年(1896)8月、15歳の時に上京し、ここで養父と住んでいた。[6]
虎清の出版物として、江戸時代末期から明治時代に活躍した浮世絵師、大円斎芳丸、又の名を歌川芳丸(二代目、俗称:伊藤鶴丸)による版画集『新撰万画摘要』(明治14年6月出版)や同じく明治期に活躍した浮世絵師、伊藤静斎による版画集『春秋錦画』(明治14年6月出版)などがある。[7][8]


また、彼が出版した浮世絵の版画の中にはオランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)が模写をした作品がある。《日本の趣味》(1887)の大鷺や《包帯をした自画像》(1889)の背景がそれである。後者の自画像は、ゴッホがアルル時代に描いた作品で、その背景のモチーフとした虎清の《風景のなかの芸者》とともに、ロンドンのコールド・ギャラリーに所蔵されている。[9]また、オランダのアムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館には、6点の虎清による版画が所蔵されている。[10]
ゴッホはアルルからパリの弟テオに送った書簡の中で「日本の版画は立派なもの、ルネサンス前期の絵画、ギリシャ絵画のように、古いオランダ絵画やレンブラント、ポッテル、ハルス、ファン・デル・ネール、オスターデ、ロイスダールのように立派なものだしそれは時代によって古びない」と評価している。[11]ゴッホは、1884年に初めて日本の浮世絵を知ったが、彼はテオから浮世絵のコレクションをもらっていた。その中の一枚に虎清の版画もあったと思われる。[12]これらの浮世絵はゴッホの自宅に飾られており、彼が生前愛読していたとされる雑誌『パリ・イリュストレ』1886年5月号にも掲載されていた作品である。[13][14][15]
経営者としての活動
虎清は版元として出版業もしたが、「佐藤商店」と称して商店を営み、外国商館向けに雑貨を売り込む貿易商もしていた。明治22年(1889)に虎清の甥にあたる風間九郎が新潟から上京してきて同居しながら商店の番頭を任せていた。じきに九郎は岐阜から上京してきた田中和(とも)が嫁いでくるのであるが、彼女は平生鉢三郎の妹である(田中家は鉢三郎の生家である)。つまり、虎清と平生氏は遠い親戚にあたり、海外貿易に通じていた虎清に対し、平尾氏から助言を求められることもあった。和もまた夫の仕事を手伝うことが多かったが、虎清の妻・沢子と経営のことで意見が合わず、それまで佐藤夫妻と同居していたが、明治27年(1894)に風間夫妻は別居し、新たに「風間商店」を設立する。[16]
霧積温泉の開拓
明治時代、金井之恭が群馬県碓氷郡松井田町(現、長野県北佐久郡軽井沢町のあたり)の開拓の権利を持っていた。付近の5,500町歩を開墾地として払下げを受けた。[17]虎清は金井氏の友人であり共に会社を立ち上げて開拓を進めた。[18]金井氏から20町歩を分け与えられ、そこに洋館建の別荘を構えた。当時、その場所には富豪たちの別荘が軒並み建てられた。現在、佐藤虎清屋敷跡には「開山 佐藤虎清碑 如鏡逸人多賀義行書」と彫られた石碑が建っている。この屋敷の北の小高い場所には、虎沢神社と称する石宮があり、道全ではここを祀っている。「虎」は虎清から、「沢」は沢子の名から取っている。[19]虎清は現在の軽井沢周辺を開拓するにあたり、明治20年(1887)に霧積温泉に目を付けた。そこで、周辺の風景を石版画で描いた『霧積山温泉之図』(明治22年出版)を自ら発行するなどして霧積温泉の開拓に携わった。[20][21]
明治26〜30年(1893-7)にかけて刊行された『日本全国諸会社役員録』では、東京商工会議所の常務委員として佐藤虎清の名が記されている。当時の会頭は渋沢栄一(1840-1931)、副会頭は奥三郎兵衛(1837-97)、大江卓(1847-1921)、益田克徳(1852-1903)の諸氏である。[22][23]。
明治27年(1894)12月9日、東京上野公園を会場とし「東京市祝捷大会」が開催された。これは、東京市民有志によって催された戦勝祝賀会であった。主催者はこの日のためだけに、11 月22 日に組織された東京市祝捷大会である。終了後、翌年5 月3 日に同会は公式報告書を作成した。これまた『東京市祝捷大会』と名づけられたが、そこには東京市祝捷大会の発起人寄付者の一人として佐藤虎清が10円(現価にして約20万円)を寄付していることがわかる。大会規程第二条にいわく、「誠実ニ戦捷ノ祝意ヲ表彰シ兼テ国民ノ一致ヲ表示シ征清ノ軍気ヲ鼓舞スルヲ目的トス」とあり、夏に始まった日清戦争(1894-5)で、日本軍は陸戦に海戦に勝利を重ねてきたので、このあたりで祝勝大会を開き、軍を激励し、国民の士気も高めようという発想であった。[24]
明治34年(1901)死去。