風間九郎 (実業家)

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風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日- 昭和5年〈1930年〉4月2日[1])は、日本の実業家、玩具の開発者。長岡藩領福島村(現、新潟県長岡市福島町)出身。東京浅草にて玩具の発明や開発をし、雑貨貿易商として商店を営み販売も行っていた。

風間九郎は、安政6年(1859年)3月6日に旧長岡藩領福島村にて、風間九八郎(1819-1901)とミツ(1833-1900)の長男として生まれる。大塚定吉の養子となるが離縁。九郎は故郷の新潟から上京し、東京に住む伯父の佐藤虎清と同居を始める。

風間家は代々、旧福島村の地主であった。彼の生まれ育った地域では、蔵王権現に対する信仰が盛んであり、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。[2]江戸時代、御神体を賜る頭人の家は、持高三十石以上と条件が付けられていたのだが、風間家は屋号を明和末頃(1770年頃)から「九助」と称し、これは頭人に「九回」任ぜられたことに由来すると言い伝えられている。[3]

経歴

「佐藤商店」からの独立・平生釟三郎とのかかわり

東京浅草西三筋に九郎の伯父にあたる佐藤虎清がおり、九郎は同居しながら佐藤商店の番頭を任されていた。当時、佐藤家の商店は繁盛していた。佐藤の妻・沢子は岐阜県加納町の出身で、後の九郎の妻となる和(トモ子)は、その縁故関係から九郎に嫁に来ないかと縁談の話があった。和は、加納藩士・田中時言(1839-99)と徳子(1840-1902)の次女で、明治2年(1869年)9月12日の生まれ。10人兄弟の大家族であり、兄に甲南学園創設者で廣田内閣の文部大臣であった平生釟三郎(1866-1945)がいる。

和も当時まだ17歳で、東京の商店に嫁げるような素養も無く、幾度かその話を断ったが、当時の田中家は経済的に切迫しており、和のために仕度調度も一切佐藤家が引き受けるとのことだったので、明治17年(1884年)にいよいよ上京することを決断した。当時東京に住んでいた和の兄・平生釟三郎は、佐藤家へ赴き、ただ一つの風呂敷を持って上京してくる妹を迎えた。その年の11月、九郎と和は結婚。平生もその婚礼に参列した 。[4] 九郎は、明治22年(1889年)6月に正式に分家し、同年9月に長男・立太郎が生まれる。[5]

玩具の開発

明治27年(1894年)、九郎は佐藤商店から離れて、浅草区小島町16番地で「風間商店」と称し、玩具等を外国商館へ売り込む営業を開始した。[6]これは九郎が佐藤商店の営業のことで意見が合わなかったためである。九郎は正直者で業務に熱心であり、彼に同情して後援してくれる者もいたが、何分資金に困っていた。資本といい得るものは、和が毎日の家計費の中から少しずつ貯えておいた200円だけであった。平生は事情を聞いて深く同情し、九郎の設立した9月から毎月、彼は自分の給料80円を会社の給料日の20日から月末まで10日間融通することにした。わずかに80円を10日間融通したのであるが、少額の資金で開業する風間商店によっては非常な加勢であり、風間夫妻は深く感謝し、月末には必ず和が根岸の家に持参して返却し、ただ一回といえども違約したことはなかった。和は、幾多の苦難にも堪えてきた気性の勝った夫人で、平生も頼もしい妹として絶えず心に掛けていた。[7]

風間商店の記号①(『日本紳士録 第3版』より)
風間商店の記号②(『日本セルロイド商工大鑑』より)

外国の玩具が日本に輸入されるようになり、海外で求めている玩具もほぼ明らかにり、舶来品の模倣が始まった。舶来品はいずれも精巧なものが多く、したがって値段も高く、一般に舶来品は優秀で価格も高いという観念が当時は支配的だったからである。後には「舶来品」という言葉が優良品の代名詞に転化したほどであった。明治36年頃になると、農商務省から倉持長吉、山田初治、小島百蔵、風間九郎、長友五郎、北川末吉の六氏が招かれて、岡商務局長や鶴見陳列館長から、玩具の輸出について勧誘されたことがあった。

政府側の意見として「ドイツの玩具輸出は目覚ましいものがある。わが国でも100万円くらい(当時は52万円弱)の輸出はしたいものだ」と、今後政府としても、ドイツから見本を取り寄せるなり、いろいろと力を貸すから組合側でも大いに努力してほしい」という言葉があった。そこで、共同販売所で設けてはどうかということが話題に上がったが、成案を得ないままに辞去したという。当時の輸出年額は51万円程度であった。政府がこうも熱心に業界に協力的であるのは、日清戦争以後の国家の独立保全を軍需産業に、その経済的裏付けを貿易産業に求めて外貨獲得をはかったためである。そこで会議を会えた組合の代表者たちは、帰途銀座の某亭で協議したが確たる意見は出なかった。[8]

しかし、日露戦争の終結後は、一般も好景気で、国を挙げての戦勝気分につれて民間では種々の会社が続出し、また物価も騰貴して日本の経済はかつてない景気を呈した。その間、各種の産業の上にも著しい発展があり、したがってその影響を受けて市民生活も向上したが、それに伴って玩具の需要も激増した。欧米への輸出も増加の一途をたどり、明治39年(1906年)にはついに100万円の輸出額を示すに至った。[9]

大正5年(1916年)、風間商店のある小島町16番地に合資会社明石製作所を設立。各種機械教育品及び材料の製造加工売買、その仲介を行うことを目的とした会社である。その出資者として明石和衛と平生乙彦がいる。[10]明石和衛(1888-1956)は、鳥取藩士の明石言語の子で、東京帝国大学(現、東京大学)を卒業し、工学博士となって精密工学会会長を務めた人物である。平生乙彦は、裁判官・平生忠辰の長男で、平生釟三郎の義弟である。

大正7年(1918年)9月21日、九郎は日本輸出セルロイド協同組合の第一次評議員として、第五次、第六次でも選出された。日本セルロイド製品同業組合は、同年11月12日に設立認可を受け、事務所は東京市浅草区瓦町26番地に置かれた。設立の目的は輸出製品の検査が主であった(昭和3年3月19日解散決議)。[11]

九郎の長男・立太郎を官立神戸高等商業学校に通わせた。昭和2年(1927年)、立太郎の子、九郎にとっての初孫が生まれ、「正」と名付けられた。

昭和3年(1928年)、セルロイド玩具の品質を向上して、一層輸出を促進するため、東京の有力輸出問屋6社で、東京輸出玩具問屋協会を設立した。メンバーは、豊田屋の倉持長吉、風間商店の風間九郎、山初商店の山田初治、荻村商店の荻村亀太郎、万綱商店の石橋千太郎、相場商店の相場金太郎の大所6名である。風間商店は当時、「玩具貿易一万の雄」と称されるほどに繁盛していた。[12]東京輸出玩具問屋協会設立の目的は、セルロイド玩具のデザイン、彩色、鋳型製作や加工技術等を研究し、その成果を一般玩具加工業者に発表、加工業者を指導、輸出玩具の品質を向上し以てセルロイド玩具の輸出増進を図ることであった。[13]

相場金太郎は、風間商店から独立した人物で、明治末期から大正初期の頃に彼が発売した「我輩は猫である」という玩具が、ちょっとしたブームを起こしたことがある。その名は、言うまでもなく夏目漱石の小説の題名を借用したもので、いわゆるイタズラ玩具の一種である。メリヤスのような生地の長さ10センチ余り、太さは一握りほどのくくり枕式の袋で、中に空気笛パンヤのような弾力のある綿で包んだものが入っている。これを握り、手を緩めると、「ニャーン」と猫の声そのままの音と発するという仕掛けである。別段珍しいものでもないが、その声がいかにも猫らしく、ゆっくりと鳴くところが愛嬌があり「我輩は猫である」という印象的な商品名も相まって一時流行した。[14]九郎自身もまた、シルクハット型飛び出し箱や模擬花火、花火菓子筒、振笛玩具といった製品を販売した。[15]

セルロイド玩具の品質向上とその輸出増資という目的を達成するため、昭和4年(1929年)、寺島町に輸出セルロイド玩具研究所を設立。この研究所の理事兼所長に海老原秀吉氏(現、オリエンタルトーイ株式会社)が就任した。研究所ではセルロイド玩具のデザインをはじめ彩色、加工技術などを研究し、また製品を作った。海老原氏は学識、経験ともに豊富の人格者で、当時業界のリーダーであった。大正15年(1926年)日本における第一回海外旅商団に選ばれて業界から参加し、1か月にわたって海外視察した経験もあり、研究所の所長に推薦されたことは当然であった。この研究所はその後、山初商店の脱退、相場金太郎氏の死去などの変遷がって、戦後は彩色研究所になり海老原氏の個人経営に移った。セルロイド玩具全盛時代に輸出問屋が示した意気込みがうかがえる。[16]

九郎の長男・立太郎は、昭和5年(1930年)3月31日に満41歳の若さで他界。その2日後、息子の後を追うように4月2日に父・九郎も満71歳でこの世を去った。[17]

家族・親戚

脚注

参考文献

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