佐野宗綱
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永禄3年(1560年)、下野国の戦国大名・佐野昌綱の子として誕生。
父・昌綱の死後、上杉謙信に度々攻められるが、これを堅城・唐沢山城と自身の知略をもって何度も撃退している。配下に鉄砲の供出を義務付けるなど[4]、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。また早くから中央政権にも連絡をとっていた。はじめ北条氏と同盟を結んでいたが、後にこれを破棄して常陸国の佐竹氏と手を結び、北条氏と戦った。
天正4年(1576年)6月10日、織田信長の推挙によって但馬守に叙任され、その礼金を献じている。
天正9年(1581年)、北条氏照に攻められたが、これは佐竹氏の援軍の助けもあって撃退に成功している。
天正10年(1582年)3月、武田氏を滅亡させた織田氏の重臣・滝川一益が上野一国を受領すると、叔父の天徳寺宝衍(佐野房綱)が一益の側近となり佐野氏は織田家と誼を通じた。同年6月18日から19日にかけて起こった神流川の戦いにおいては、滝川一益の要請を受け上州和田に出陣した[5]。
天正12年(1584年)4月、宗綱は北条方であった富岡秀高の小泉城を攻撃し、沼尻の合戦が起きた。
天正13年(1585年)元旦、北条氏に与する長尾顕長と彦間で戦った際、敵将の挑発に乗り単騎で突出したところを鉄砲で撃たれ、落馬したところを討ち取られた[6]。それまで長尾勢との戦いにおいて宗綱は敵に遅れをとった事が無かったため、自身の武勇を過信し、敵を侮ったとされる。この時、弟にあたる岩崎重久も戦死した。