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体源抄

室町時代の楽書 From Wikipedia, the free encyclopedia

『体源抄』(たいげんしょう、旧字体表記:體源抄)は、室町時代に雅楽家の豊原統秋が編纂した楽書。永正9年(1512年)成立。3巻、10巻、13巻には永正13年(1516年)に加筆された形跡がある。書名の由来は作者の苗字であり、「體」「源」の文字の旁に苗字の「豊原」が隠されている。原本は万治4年1月15日(1661年2月14日)の内裏火災で焼失したが、東北大学狩野文庫本を底本として山田孝雄が校合、翻刻したものが『日本古典全集』に収録されている。『教訓抄』・『楽家録』と並び、三大楽書の一つとされる。

概要

15世紀後半に起こった応仁の乱によって京都は灰燼に帰し、多くの文化財が失われると共に京の文化は衰退した。雅楽も断絶の危機に瀕し、統秋に笙を教わった後柏原天皇も、統秋に宛てた宸翰の中で、その断絶を懸念している。そのような世情の中で、統秋は雅楽を後世に伝承する方法を模索し、『体源抄』の執筆に取り掛かった。

内容は項目によって繁簡の差はあれど雅楽全般に渡って細緻に記述され、『詩経』・『源氏物語』・『十訓抄』・『古今著聞集』・『入木抄』など、古書からの引用も多い。統秋は雅楽のみならず、書道、香道、宗教、文学などに広く精通しており、その方面に関する記述も豊富である。

後世に書かれた『楽家録』と比較すると、文体が雑駁な面もあるが、その楽家録を書いた安倍季尚も、楽家録執筆の際に本書を参考、模範としており、雅楽研究の上で必読の書と言われる。

構成

『体源抄』は13巻785ヶ条の条項から成る。1巻は序文と笙他雅楽の総論、2巻、3巻は楽曲論、4巻は笙に関する記事とその譜面、5巻は吹物、6巻、7巻は打物、8巻は弾物とそれぞれに楽器に関する記事、9巻は舞、10巻は歌、11巻は管弦と御遊の作法、12巻は舞楽曲補遺、13巻は雅楽家の系図を記す。

豊原家の家伝資料

伝授・先例記録

『体源抄』には楽曲や楽器の解説に加え、豊原家における伝授、奏楽、御師範及び家内先例に関する記録が多数収められている。巻十一から巻十三には「禁裏御笙始代々之御例」「将軍家御笙沙汰記」「代々大鼓所作少々載之」「代々公私荒序所作事」などがあり、天皇・将軍への笙伝授、豊原氏各流の座次、秘曲の所作及び相承関係を伝える[1]。

巻十二上は「蘇合香秘説日記事」などの伝授記録と豊原家の先例を多く収め、楽曲の補遺という構成上の分類にとどまらず、豊原家の「家」に関わる資料を集めた巻としての性格を持つ[2]。

「英秋当道相伝之事」

巻十二上所収の「英秋当道相伝之事」は、豊原英秋の子量秋が記した教習記録である。菊亭家旧蔵本では七丁に及び、『体源抄』中に散見する短い人物説話とは分量と構成を異にする。一人の楽人について、出生、幼名、唱歌、笙始、元服、秘曲伝授及び天皇・将軍との関係を年齢順に記した例は、本書中にほかにない[3]。

英秋は七歳で笙始、九歳で「蘇合」、十五歳で「荒序」を相伝し、兼秋と並んで十五歳で笙の道を極めた人物として描かれる。記事の末尾には統秋の解釈が付され、豊原家の後人が幼少期の伝授段階を英秋の例に倣い、器用の者には能力に応じて伝授することを求めている。「英秋当道相伝之事」は英秋の経歴を記すだけでなく、豊原家における理想的な楽人教育の規範として収録されたと考えられている[3]。

ただし、英秋の幼少期に関する逸話は『園太暦』『後愚昧記』などの同時代古記録には見えず、同時代に確認できるのは主として御楽の参仕交名である。この部分は量秋が記し、後に統秋が解釈を加えた家伝説話として史料的性格を考慮する必要がある[4]。

系図と相承次第

巻十三には「豊原系図」と、天皇家・将軍家・山科家・豊原家の笙相承を示す「相承次第」が収められている。血縁上の系図と技能の相承は常に一致せず、信秋が病気となった後に英秋が代官として伝授を担ったことや、信秋から足利義満へ伝えられた「荒序」が量秋へ返伝授されたことなど、形式的な系図だけでは捉えられない相承関係が存在した[5][6]。

『体源抄』巻十二上の「英秋当道相伝之事」では、英秋は十五歳で笙の道を極めた理想的な楽人として顕彰されている。また、巻中に収められた伝授記録や先例記録からは、英秋が信秋と量秋の間で嫡家の継承を実質的に支えた役割も読み取れる。統秋も英秋を「高祖」と呼び、その自筆記録を所持していた。一方、「豊原系図」と「相承次第」では、英秋は形式上の嫡系に含まれていない[7]。

この差異については、十四世紀の嫡家継承危機では英秋が信秋と量秋の間を補完したものの、十五世紀には英秋と同じ成秋系の久秋・縁秋・繁秋らが御師範と秘曲の所作をめぐって嫡家と競合したため、後代の系図では嫡庶の区別が強調されたと解釈されている。本文と系図は、成立時点の異なる家伝記録や家系認識を重層的に収録しており、南北朝・室町期における豊原家の盛衰と家内部の関係変化を反映する[8]。

「相承次第」の現存本文は一時に成立したものではない。「今上後光厳」の記載と収載人物から、後光厳天皇の在位期(1352年 - 1371年)に編まれた部分を基礎とし、その後も室町後期まで追記されたものとされる[9]。

承久2年(1220年)の藤原定輔の奥書を持つ、より早い時期の笙相承系譜「鳳笙師伝相承」では、源氏の人物として源義光のみが記されている。これに対して「相承次第」では、義光の父源頼義と兄源義家が加えられ、三人の官職・称号・法名などの注記も詳しくなった。義光には「荒序相伝」の注記が加えられ、義光から豊原時元へ「荒序」が伝えられたとする関係も新たに記されている[10]。

「相承次第」の内題下には「荒序相伝并公宴所作人入之」と記され、荒序相伝と公宴での演奏経験が特に収録対象とされた。収載人物274人中、延べ40人に荒序相伝に関する注記があるが、荒序を他者へ伝授した師範本人に注記がない例も多い。このため、同注記はすべての相伝者を網羅したものではなく、通常の相承関係から外れる人物や、その相伝の正統性を特に示す必要があった人物に選択的に付されたものとみられる[11]。

三島暁子は、『時秋物語』類話に見える義光から豊原氏への秘曲伝授説話と、「荒序相伝」の情報が南北朝時代に結び付けられ、足利将軍家に都合のよい相承系譜として「相承次第」が形成されたと推定している。頼義・義家を加えた改編には将軍家が関与した可能性があり、豊原嫡流嫡家も天皇・将軍・高位貴族への伝授を系譜に記すことで、自家の権威を示すことができたという[12]。

なお、「相承次第」には同系別本の「鳳笙事並相承事」(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本)があり、『続群書類従』第19輯所収の「鳳笙師伝相承」もこの系統に属する。三島論文では「相承次第」と同系別本との全面的な異同比較は行われておらず、記載内容を利用する際には伝本差を考慮する必要がある[13]。

「荒序」と「太食調入調」

鎌倉時代に成立した『教訓抄』では、「荒序」とともに「太食調入調」が極秘の曲として扱われている。『時秋物語』も、源義光が豊原氏へ伝えた秘曲を太食調入調とし、14世紀に成立した『続教訓抄』にも両曲を重視する認識が見られる[14]。

これに対して『体源抄』は、荒序に関する豊原嫡流の演奏記録、相承先例及び将軍家との関係を詳しく収める一方、太食調入調には多くを割いていない。三島は、この差異を鎌倉時代末期以後に進んだ豊原氏の分流と、室町時代における荒序の権威化を考える手がかりとしている。ただし、太食調入調から荒序へ秘曲の重点が移った具体的な過程と家内相承との関係は、今後の課題として残されている[14]。

両曲は演奏上の性格も異なる。荒序では舞・笛・笙の演目全体が秘曲と位置付けられ、独立した曲として賞翫の中心となった。太食調入調は舞人の退出時に奏される種類の曲で、独立曲として賞翫の中心となるものではなかった。この演奏形態の違いも、荒序が室町時代に重視された背景を考える上で注目されている[15]。

編纂者の家系認識

統秋は『体源抄』において、天皇・将軍の笙御師範を務めた自家を豊原氏の嫡家として強調した。その一方で、統秋以前に久秋・縁秋・繁秋ら分家の人物が天皇御師範を務めた事実には言及していない。したがって、本書の系図と御師範歴は豊原氏全体の活動を中立的に列挙したものではなく、統秋が捉えた嫡家の系譜と正統性を示す資料として読む必要がある[16]。

「豊原系図」は養子の記載方法などに諸本間の異同がある。三島暁子は、各人物の客観的な血縁関係を確定するためではなく、統秋がどのような「家」を構想していたかを検討するため、『体源抄』所収系図を用いている。所収系図は家系そのものの確定資料として慎重に扱う必要がある一方、編纂者の家系認識を知る資料として高い価値を持つ[17]。

以上から、『体源抄』は雅楽の楽曲、楽器、奏法及び故実を集成した楽書であるとともに、豊原嫡家が伝授記録、家記、系図、秘曲の先例及び天皇・将軍との関係を整理し、自家の相承と正統性を後世へ伝えるための家伝資料としての性格も備えている[16][8]。

脚注

参考文献

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