依田伊織
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父母
生涯
伊織は末子であったが、上の兄弟が早世・出家した為に両親を養う立場にあった。妻子を持つこと無く、出家せず、父母に孝養を尽くしながら神・儒・仏の学問を習得し、神学体系を起こして130巻にも及ぶ著作を残している。
両親没後の享保6年(1721年)41歳の時、府中本町の実家を離れ、兄が住職を務める上野寛永寺の子院「津梁院」に仮住まいをした。その後、谷中に「興雲閣」を建て著作活動を始めた。
伊織は両親や祖先の冥福を祈るために、寺院造立を願っていたが、当時は寺院の建立が抑止されていて、願いは叶わないまま月日が流れた。
寛保3年(1743年)の冬、衰微はしていたが10石6斗余の朱印地を有する、由緒ある府中の天台宗「善明寺」の若い住職、證海が移築の申し出をして、再建することになった。伊織は祖先の館跡を提供、財を寄進し、現在の悲願山善明寺を延享2年(1745年)に改建した。改建後は寺内に悲願山文庫を建立して著作・蔵書を中心に多くの人を指導した。
善明寺は安楽律院派の寺院であったが、宝暦8年(1758年)天台宗における安楽律の廃止をうけて、やむなく一向大乗寺に属することになった。この時、京都の冷泉先大納言宗家卿の別宅に仮居して著作集「大教小補」等の仕上げをしていた伊織は、急遽江戸に帰り事後対応に追われ、著作活動は終わることになる。そして安楽律復旧の訴訟を行うために、江戸にやってきた退散律僧に東京谷中の自宅を開放し、世話をした。
宝暦14年(1764年)3月17日、持病の癪が悪化し、多くの弟子達に見守られながら84歳で没している。善明寺には帰葬された伊織の墓「偏無居士依田君之墓」が、両親の供養塔と並んで本堂裏にある。碑文もあり下野国(現:栃木県)の大平山神社主、青木摂津守政勝の撰文で証海居士が碑銘を作っている。墓は現在、都の旧跡に指定されている[5]。