傍示 (交野市)
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歴史
現在の交野市東部の山地は、石清水八幡宮の荘園の三宅山だった[8]。延喜17年(917年)、三宅山の木の盗伐への対策として、荘園の境界を明確にするための牓示を設置するよう、交野郡司が河内国司に願い出ている[9]。河内国と大和国の国境付近は三宅山と大和高山荘の境となっていることから、ここに牓示が立てられたとみられ、地名の傍示はそれに由来すると考えられる[9]。なお、大和側の地名も傍示であるため、区別のため西傍示とも呼ばれる[6]。
天正元年(1573年)には、摂津国伊丹城主の伊丹氏一族が傍示に移住したと伝わる[10][11]。同年、伊丹親興は将軍・足利義昭に味方して織田信長軍と戦い、芥川城で戦死したとされており、居城の伊丹城は芥川城を落城させた荒木村重に与えられ、伊丹一族は傍示に逃れてきたという[10][11]。
江戸時代の村名として傍示村の名が見られる[6]。河内国交野郡に属していた[6]。傍示村は、寛永10年(1633年)に山城淀藩の永井氏領となっており、元禄7年(1694年)に幕府領、宝永元年(1704年)に上野沼田藩の本多氏領となっている[6]。享保15年(1730年)には再び幕府領となり、文久2年(1862年)より京都守護職役知となった[6]。
村高は正保年間(1644–1648年)の時点で39石余り[6]。文化6年(1807年)の時点で家数11軒、人数43人である[6]。
1881年(明治14年)、大阪府に属し、1889年(明治22年)、磐船村の大字となった[6]。