備讃諸島

香川県・岡山県にある多数の島々の総称 From Wikipedia, the free encyclopedia

備讃諸島(びさんしょとう)は、瀬戸内海備讃瀬戸にある小豆島直島諸島水島諸島塩飽諸島笠岡諸島の総称である[1]。備讃諸島を主とする地域は日本遺産に認定されている[2]

備讃諸島の衛星写真

地理

香川県岡山県にまたがって位置し、瀬戸内海の中央部、備讃瀬戸周辺に散在する小豆島、直島諸島、水島諸島、塩飽諸島、笠岡諸島の大小約160の島々からなる。ほぼ全域が瀬戸内海国立公園の範囲にあり、諸島を二分するように架かっている瀬戸大橋とともに美しい多島海景観を見ることができる。これらの島々は東西方向の沈降軸と南北方向の隆起軸の交点にあり、縄文海進によりできあがった。平地が少なく、花崗岩だけからなる島と、上部は火成砕屑岩を挟んで安山岩をのせるテーブル形または円錐形の開析溶岩台地の島に分かれ、山肌から海岸まで至るところに巨石がむき出しとなっている。後者は一般に標高200~300mと高く、最高点は小豆島の星ヶ城山(817m)である[1][2]

歴史

古来、備讃諸島は内海交通の要路にあり、島々の港は内海輸送の物資を集散して賑わった。これらの島を根拠地に水軍が活躍し、豊臣秀吉徳川家康から朱印状を得て、塩飽諸島などで人名制の自治が許された。

江戸時代前期、北前航路でも活躍し、帆船の寄港地として繁栄した島々も多く、牛島は計5万石の帆船を所有していた。また、塩田が各地に広がったほか、多くの島は天領として倉敷代官の直轄下に置かれた[1]

また江戸時代以降、備讃諸島の富んだ地質を活かして良質の石が切り出され、建造物に使われるようになっていった。1620年(元和6年)、徳川幕府が西国・北国の大名63藩64家を動員し、大阪城の石垣を再建した。9年間かけて、大名たちが備讃諸島から大量に運ばれてきた巨大な石材を運び込み、最高・最多量といわれる石垣を築き上げた。

巨石を切り出す技術者達の来島によって、豊富な花崗岩を使いこなす文化が島に生まれ、塩飽本島では、木烏神社鳥居や島の統治者「年寄」の墓などの大形石造物が、この頃から造られるようになった。海上交通の要衝である備讃諸島には港町が形成され、自然の地形を利用した入り江を、切った巨石を積み出すための産業港とし、物流の拠点にした。巨石の運搬には塩飽の民が携わっていたが、100tを超える石を運んだその海運力と優れた操船技術は中世の塩飽水軍ほどであった。塩飽諸島は、中世には塩飽水軍、江戸時代には塩飽廻船の根拠地でもあり、幕末は咸臨丸の乗組員を多数輩出する船乗りたちの聖地であった。

備讃諸島の集落は街路が屈曲していて、十字路を形成しない複雑な町割りであった。三方を山城のある丘陵に囲まれている塩飽本島の笠島地区でも、狭い道路が複雑に食い違い、見通しがきかない防衛的な構造であったが、マッチョ通り(町通り)と呼ばれる主要道路に沿って町屋形式の家屋が建ち並んでおり、当時の経済力を物語っている。笠岡諸島の真鍋島でも塩飽水軍と並び立つ中世真鍋水軍の拠点にふさわしく、山城の麓に防衛的な町割りの集落が展開している。

明治維新後、下津井と塩飽島民の漁場争いでの幕府裁定により備讃諸島は香川県と岡山県の2県に分かれた。海運の衰退とともに、漁業や製塩、石材採掘、柑橘類栽培などに依存して島の経済が支えられたが、塩田の廃止や内海漁業の不振後は働き手が出稼ぎするようになった島も多い。

日本の近代化が進んだ明治後期から昭和初期にかけて、花崗岩の採石は地場産業として確立されていった中、笠岡諸島の北木島から切り出された「北木石」と呼ばれる花崗岩は東京をはじめ、全国各地の近代建築に使われていった。北木石を使った重要文化財建造物には先述のほかに、横浜正金銀行(現神奈川県立歴史博物館)、大阪市中央公会堂日本橋、東京駅丸ノ内本屋、三越日本橋本店など、日本に無数に存在する。

1950年代の機械化によって山を切るような採石が可能となってからも、石工たちは良質の石を追い求め、下へ下へと深く切り進んでいった。その結果、高さ100mほどの断崖絶壁のような丁場が誕生した[2]

日本遺産

2019年(令和元年)5月20日笠岡市丸亀市土庄町小豆島町が共同で申請した備讃諸島をテーマとする「知ってる!?悠久の時が流れる石の島~海を越え、日本の礎を築いた せとうち備讃諸島~」のストーリーが日本遺産に認定された[3][4]国指定史跡である大阪城石垣石丁場跡や国登録有形文化財である醤油蔵と石道具の街並みなどの48の文化財で構成されている[5]

ストーリー

瀬戸内備讃諸島の花崗岩と石切り技術は長きにわたり日本の建築文化を支えてきた。日本の近代化を象徴する日本銀行本店本館などの西洋建築、また古くは近世城郭の代表である大坂城の石垣など、日本のランドマークとなる建造物が、ここから切り出された石で築かれている。島々には、400年に渡って巨石を切り、加工し、海を通じて運び、石と共に生きてきた人たちの希有な産業文化が息づいている。世紀を越えて石を切り出した丁場は独特の壮観な景観を形成し、船を操り巨石を運んだ民は、富と迷路の様な集落を遺した。今なお、石にまつわる信仰や生活文化、芸能が継承されている。[6]

また、日本遺産の認定を受け2市2町で構成する「せとうち備讃諸島日本遺産推進協議会」を設立し、連携をさらに高めた。備讃諸島の魅力を深め発信し、観光や産業の振興や街のブランド化を推進している[4][7]

脚注

Related Articles

Wikiwand AI