太田川では度々洪水が繰り返されており、その結果流域の変化が起こっていた。江戸時代ごろには主に西原村で農業生産への被害が重大であった。元禄5年(1692年)から享保17年(1732年) にかけて、広島藩を中心に対策を打ち出そうとしたが、失敗に終わった。干ばつの実情を見た祇園村の大工であった桑原卯之助は、太田川から水を引き入れる方法を模索し、1年間に渡る現地調査の末に、八木城山の南から3.75km地点である「十歩一」を取水口にして用水路を建設しようと考えた。[2]
卯之助は実地測量を通して細かな図面を作成し、必要な経費を割り出した。藩の同意を得て、明和5年(1768年)4月4日に着工し、同月4月28日に完成した。この短期間の工事が成功したのは、昼夜兼行で行われたことや卯之助の計画性、西原村民の尽力の功績であるといえる。また、以前から作られていた水路を活用した点も要因の一つであるといえる。[2]
大正8年(1919年)の太田川の大洪水で取水口であった「十歩一」が破壊されたため、現在は八木の「鳴」に移されている。[2]