八柱神社 (岡崎市)
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旧社号と八柱神社の成り立ち
旧社号
旧社号を「八王子大権現」という[3]。
社号の変更は、明治元年に明治新政府から発布された神仏分離令が関連している。令の発布により、岡崎藩においても社号改称のお触れが出された。一例によると「八王子」については「八柱社」に変更。本地垂迹の思想が色濃い「大権現」の記載は削除され、現在の社号の礎になったとみられる[4]。
八王子大権現の成り立ち、社の場所と大きさ[3]
旧欠村にある広見に祀られていた大日女靈尊(天照大神)と大己貴命(大国主命)、また明和4(1767)年に勧請された御鍬大神社の3柱を祀っていた社。[注釈 2]加えて、下記の権現社と神明宮の分社。これらの社と神明宮を総称し「八王子大権現」と号したとされる。『参河總視禄 欠村記』によると、
- 所在地:欠村と洞村境にあり
- 祭神二座(大日女靈尊、大己貴命):四尺四方(約4.85m×4.85m)
- 御鍬大神社:覆い一間四方(約1.81×1.81mの覆屋と推測される)
- 権現社:一尺五寸四面(約45.5㎝×45.5㎝)
- 神明宮:一尺五寸四面(約45.5㎝×45.5㎝)
関連する社
江戸時代後期に成立した『参河國名所圖繪』や参河の地誌『参河聰視禄』によると、現)八柱神社が座する石ケ崎には以下に記述する二つの社が座していたとされる[3]。
- 岡崎信康が岡崎城主だった際の岡崎町奉行のひとりで欠の郷/欠村に居住していた松平新右衛門[注釈 3]の義兄、且つ、元は紀伊の生まれで桜井村(安城市桜井町付近)より欠村に越してきた鈴木墨右衛門重辰が勧請した(熊野)権現社。この権現(祭神)が仏教・牛頭天皇の「8人の王子である”八王子”」、もしくは神道・5男3女神を祀ったと推測される。[3][6][注釈 4]
権現社の由緒
鈴木墨右衛門重辰の始祖は平安時代後期に民部助(鈴木庄司清之と改める)が熊野に養子入り。清之の孫にあたる鈴木重治が源義経に仕え、一之谷の戦い・屋島の戦いにて軍功あり。文治2(1186)年に藤代(現在の和歌山県)にて没。重治の嫡男・重純が建保元(1213)年に右大臣・源実朝より父・重治の軍功の褒美として藤代にて一里の庄を賜ると伝えられている。
(以降、原文ママ)天文元(1532)年藤代八幡之神託に寄て三河之国鴫原之庄桜井村に移る。則ち八幡の神体を稲に包み守奉る。(中略)天文8(1539)年兄弟口論に寄って桜井村より根石之郷に住居。松平新右衛門に内縁あるに依て此所に住居す。伝えに曰く、重則(※重辰父)先祖重光、熊野権現を勧請し奉る桜井村に住居の(※解読不能)信仰す。嫡男重辰桜井村より掛之郷に守奉し北山池の峯に社を建て勧請す。是鈴木の氏神也。鈴木墨右衛門重辰・天正6(1578)年戌寅6月13日没。妻・松平新右衛門姉・慶長3(1598)年戊戌12月朔日没[7]。
- 大永2(1522)年から天正17(1589)年の間、欠の郷の領主であった柴田一族に所縁があるとされる。天正7(1579)年、柴田新四郎正親の次男・六郎が出家。法名を祐傳としたとされ、祐傳寺を開山[8]。その際、家康の上意により築山殿の御霊を祀る神明宮別当となった。その祐傳寺[3][9]より、正保3(1646)年に欠山に移転された神明宮。
上記の社は、『岡崎市史 第七巻』によると大正2年2月22日に上記の広見に遷座されたという記録がある。[6]
名勝として
豊橋上伝馬の金物商であった夏目可敬が嘉永4(1851)年から8年を掛けて三河の名勝を記した『参河國名所圖繪』には欠村の名勝として、権現社と神明宮が記載されている[10]。
また、寛政年間に江戸幕府が道中奉行に命じ文化3(1806)年に完成した『東海道分間延絵図』[11]に於いても「鈴木墨右衛門屋敷跡」という記載と共に現在の八柱神社の所在地付近に鳥居の印が描かれている。[12]
度々改編される由緒
原本が内閣文庫に保存されている、江戸時代末期に加茂久算が記した地誌『参河聰視禄 欠村記』においてはそれぞれの祭神・例祭・社地/境内広さ・社/拝殿寸法などが事細かく記されている[3]。
その一方で、大正15(1926)年から昭和10(1935)年に岡崎市役所から刊行された『岡崎市史 第七巻』においては大己貴命・権現社・築山殿御霊は削除され、以下のように記されている[6]。加えて、『岡崎市史』の編さん人を務めた伊賀八幡宮の宮司の嫡男・柴田顕正は以下引用文の内容を補填するために『参河聰視禄』を参考として用いている[13]。
| 大正二年二月二十二日同町石ケ崎より無格社神明社を合祀した、此神明社の祭神を、今は天照大神となせど、實は徳川家康の室築山殿の靈を祀つたものであると傳へて居る。祭神は、五男三女の神、天照大神である。然るに参河総視禄には、石ケ崎神明社を合祀せざる以前、祭神二座、大日女靈尊、大己貴命となせるが、何に據つたものであろう。(参考の條参照) |
近年では、岡崎市役所が大正15(1926)年に刊行した『岡崎市史』、また昭和59年に刊行された『新編岡崎市史』においては天正7(1579)年に創建[13][1]と記述されている一方、神社内の御由緒では創建年度不明、及び著作者/発行者不明の神社内に置かれているチラシにおいては鎌倉時代後半創建と由緒の記載に乖離が見られる。

加えて、大正2年2月22日に現)八柱神社が座する場所に在った権現社と神明宮が広見に遷座され、また、昭和9年に広見に座した八柱神社が現所在地に遷座された経緯や御祭神の度重なる変更は『岡崎市史』といった公的な記録に遺されていない。
その他にも鈴木一族の家系図には上記の権現社・由緒に記述されているとおり「熊野権現」と明記されているが、”熊野信仰の基本研究史料”とされる昭和17年に官幣中社熊野那智神社により編纂・発行された『熊野三山とその信仰 熊野那智大社編』に八柱神社が熊野信仰と関連ある神社として記載されていない[14]。[注釈 6]
築山殿に関しては、築山殿の御霊を祀る神明宮が欠山に移転された記録は地誌『参河総視禄』や『岡崎市史(旧版)』にて確認できるが、「築山殿の首塚の改葬」という文言は見当たらない。『岡崎市史 第7巻(浄土真宗高田派 祐傳寺)』においては、
| 尚當寺の裏に、築山夫人の墓碑、及び舊高松藩士玉井義信の墓がある |
とある[15]。
鈴木一族の記録では、明治18(1885)年に没した鈴木墨右衛門・松平新右衛門の子孫・鈴木清太郎を最後に鈴木一族が八王子大権現・八柱神社の神主の座から降りているという旨の記述がある[7]。
近年伝わる由緒
古来、熊野に居住していた清和源氏の流れをくむ鈴木一族が源平合戦を経て、しばらく後に碧海郡桜井村(現在の安城市桜井町)に移り住んだ。その後、一族の一部が三河国(現在の岡崎市)欠村(現在の欠町、元欠町、根石町、栄町、朝日町4丁目、若宮町3丁目[16]、及び西欠町)に再度移住。日ごろより崇敬していた熊野権現を同村・広見の森中に奉斎する。その奥宮を同村北方の山頂(現在地)に祀った。以降、鈴木一族の氏神として尊崇されたが欠村の発展と近隣住民の増加等、時代の移り変わりを経て同村の鎮守として崇められるようになった。
現在は近隣地域の鎮守とし崇敬されている。
歴史
- 天正7年(1579年) - 創建[1]
- 正保3年(1646年) - 築山殿の御霊を祀る神明宮の遷座[3][6]
- 明和4年(1767年) - 近隣に在った御鍬神社を合祀する。
- 明治5年(1872年) - 村社に列する。
- 明治42年(1909年) - 神饌幣帛料供進神社に指定される。
- 大正2年(1913年) - 築山神明宮を本殿下陣に合祀される。
- 昭和9年(1934年) - 欠町広見西通りから現在地に移転遷宮
- 昭和52年(1977年) - 築山御前の首塚の改築工事
祭神
- 熊野権現(五男三女神)
神明宮の合祀

神社内の説明版によると、「天正7年(1579年)、織田信長の命により小藪村(現在の浜松市中央区冨塚)で殺害された築山御前の御霊を祀る。築山御前の首は、織田信長の実検を受けた後に真宗高田派の祐傳寺(岡崎市両町)に埋葬されたが正保3年(1646年)に八柱神社の境内に改葬された」とある[17]。
移転の経緯
正保2年(1645年)に岡崎藩主となった水野忠善は、田中吉政より始まり、その後の岡崎藩主・本多家へと引き継がれた城下町整備を引き続き行った。 正保3年(1646年)に水野忠善は投町(現・若宮町)南に位置し、築山殿の神明宮を有した祐傳寺を両町に移転させ、その跡地に下級武士の組屋敷を拡張したとされる。その折、神明宮は欠村の山に移転したとされる[18][6]。
縁
加えて、上記の時代に岡崎藩主となった水野忠善の代、正保4年(1647年)より岡崎藩においても手永/大庄屋制度が始まった。『新編岡崎市史 近世3』によると、
| (中略) 旧武士の系譜を持つ家柄から、土豪層の優遇政策を通じて、領内地方支配を円滑にしようとする表れであろう。また岡崎領内には三河一向一揆の際に主人家康の敵側にまわり、その後御家人にも復帰できずに土豪的存在で在村大地主の地位を確立した家筋もかなり多く存在していた。 |
とある[19]。
上記、岡崎藩内9名の手永/大庄屋に矢作川西側19か村を行政管理した欠村・2代目清右衛門の名があり、[20]清右衛門は権現社を勧請した鈴木重辰の孫、及び、松平新右衛門の内縁の孫にあたると勘案される[7][注釈 7]
例祭日
ロケ地として
岡崎市が映像制作のロケーション撮影を誘致していることにより[21]、八柱神社も映像のロケ地として活用されている[2]。
作品名
- 映画『朽ちないサクラ』[22] ―2024年6月21日公開
脚注
注釈
- ↑ 『岡崎市史(大正15年発行)』『新編岡崎市史』によると、天正7(1575)年創建とされているが、複数の社の総称・八王子大権現(現・八柱神社)が成立した年なのか後述にある関連する社の権現社が創建された年なのかは不明である
- ↑ 欠の郷/欠村は文和年間~大永年間は菅生領。領主は小嶋大蔵。大永~天正18年より根石掛領。領主は柴田衛守。天正18年~慶長6年の領主は田中吉政[5]。大日女靈尊・大己貴命を勧請した人物・年度は不明
- ↑ 『三州諸士出生記』をはじめとする三河武士の出生録でも欠村の旗本として松平新右衛門の名が記載されている
- ↑ 「旧名称を八王子大権現としてあることから、明治時代に発布された神仏分離令以前は「神仏習合があった時代背景」、「熊野権現」という特性、また、「八王子」という名称から「牛頭天皇の8人の王子」を祀ったのではなかろうかと推測される
- ↑ 幅広い関連文献や岡崎市内各村より提供された資料に基づき柴田顕正が『岡崎市史』を編さんしていることがリンク先にて確認できる
- ↑ 『熊野三山とその信仰 熊野那智大社編』によると「分祀調査は昭和9(1934)年より昭和17(1942)年に及び(以下省略)」と記述されている。また、八柱神社の石板の御由緒は昭和59(1984)年の建立である
- ↑ 自然災害や火災、戦禍等の度に一族内で被災を逃れた複写を原本として複写を重ね現在まで遺してきたため、現状、一族内の記録・資料に留まっている。
出典
- 1 2 3 4 『新編岡崎市史 総集編20』, p. 700.
- 1 2 八柱神社 - 愛知県岡崎市公式観光サイト・岡崎おでかけナビ
- 1 2 3 4 5 6 7 『参河聰視禄 欠村記』.
- ↑ 『新編岡崎市史 近世3』, p. 1460, 1461.
- ↑ 『岡崎市史 第参巻』, p. 305-306.
- 1 2 3 4 5 『岡崎市史 第七巻』, p. 151-153.
- 1 2 3 『掛村 鈴木家家系図』.
- ↑ 『岡崎市史 第七巻』, p. 456-461.
- ↑ 『岡崎市史 第参巻』, p. 306.
- ↑ 『参河國名所圖繪 下巻』, p. 409, 410.
- ↑ 東京国立博物館
- ↑ 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所HP
- 1 2 『岡崎市史 第七巻』, p. 151.
- ↑ 『熊野三山とその信仰 熊野那智大社編』.
- ↑ 『岡崎市史 第7巻』, p. 457.
- ↑ 『新編岡崎市史 総集編20』, p. 643.
- ↑ 八柱神社内「築山御前首塚」説明板.
- ↑ 『『新編岡崎市史 近世3』, p. 193.
- ↑ 『新編岡崎市史 近世3』, p. 284-285.
- ↑ 『『新編岡崎市史 近世3』, p. 290.
- ↑ 岡崎フィルムコミッション - 愛知県岡崎市公式観光サイト 岡崎フィルムコミッション
- ↑ 朽ちないサクラ - 映画『朽ちないサクラ』製作委員会
外部リンク
- 八柱神社 - 愛知県岡崎市公式観光サイト・岡崎おでかけナビ
- 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所HP - 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所
- 東京国立博物館 研究情報アーカイブス - 東京国立博物館
- 八柱神社 - 愛知県岡崎市公式観光サイト・岡崎おでかけナビ
- 岡崎フィルムコミッション - 愛知県岡崎市公式観光サイト・岡崎おでかけナビ
- 朽ちないサクラ - 映画『朽ちないサクラ』製作委員会
