兵庫電気軌道36形電車

From Wikipedia, the free encyclopedia

兵庫電気軌道36形電車(ひょうごでんききどう36がたでんしゃ)は兵庫電気軌道(兵庫電軌)が1921年に製造した鉄道車両である。

製造所 日本車輌製造東京支店
製造年 1921年
製造数 5両
概要 基本情報, 運用者 ...
兵庫電気軌道36形電車
基本情報
運用者 兵庫電気軌道
製造所 日本車輌製造東京支店
製造年 1921年
製造数 5両
運用開始 1921年
運用終了 1948年
廃車 1948年
主要諸元
編成 1両編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流 600V
自重 21.0t[1]
車両定員 92 名(座席44 名)[1]
最大寸法
(長・幅・高)
14,020 mm × 2,400 mm × 3,810 mm[1]
台車 ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW) 54-18-L
固定軸距 1,372 mm
主電動機出力 48.5kW(65 馬力)
搭載数 2 個/両
端子電圧 600V
駆動方式 吊り掛け駆動方式
定格出力 97.0kW
制御方式 抵抗制御・直並列制御
制動装置 直通ブレーキ
テンプレートを表示
閉じる

製造

神戸岡崎銀行の創始者、岡崎藤吉が兵庫電軌の第3代社長に就任[2]して程無い1921年に、以下の5両が東京府東京市向島区[* 1]に所在した日本車輌製造東京支店で製造された[3]

36形36 - 40

前年製作の29形は兵庫電軌第2代社長であった伊藤英一播州鉄道創業以来関係の深かった堺の梅鉢鉄工所(梅鉢鉄工場・梅鉢工場とも)に発注されたが、社長をはじめ経営陣が総入れ替えとなった後に発注された本形式は兵庫電軌・神戸姫路電気鉄道(神姫電鉄)・山陽電気鉄道の歴史を通じて唯一の日本車輌製造製車両となり[4][3][* 2]、また兵庫電軌として最大にして最後の新製旅客車両となった[6]

車体

既存の1形29形よりも約0.6 m車体が長く12 mm最大幅が拡大された[1]

屋根側面に明かり取り窓を設けた二重屋根構造(レイルロード・ルーフ)で、両端デッキ付の木造両運転台車体という基本構造は踏襲されたが、大型化に伴い側面中央に片引き戸による客用扉が設置され、併用軌道区間でこれと連動して展開する折り畳みステップが備え付けられている[3]

車体客室部の側窓は1段下降式で、客室部側面中央に客用扉が設置された事から、その両脇に3枚、2枚、1枚、(客用扉)、1枚、2枚、3枚で計12枚の窓が設置されている[3]。なお、側窓の内、両端デッキ脇の各1枚は他より若干狭幅となっている[7]

その他の車体形状・構造は概ね1形に準じる。側窓には日除け用の鎧戸が備え付け、側面窓には2本の保護棒が線路方向に取り付けられ、窓下腰板部には細い羽目板を並べる。

客室部両端前後の妻面中央には雨天時に雨水が客室に浸入しないよう引き戸が設けられ、客室にはロングシートが設置されている。

運転台は客室前後のデッキ部に設けられ側面には扉のない、吹きさらし構造である。ただしデッキ部分区画の運転台前面には3枚窓構成の妻窓を備えた緩い曲面を描く妻板を設置した、いわゆるヴェスティビュール[* 3]付きの車体である。3枚の妻窓の内、中央の1枚の上部に行先表示窓を、下部に2基のトロリー・レトリーバーを備える。

このため、側面窓配置はv 3 2 1 D (1) 2 3 v(v:ヴェスティビュール、D:客用扉、数字:窓数(括弧内は戸袋窓))となる。

神戸市内に併用軌道区間があった事から、道路上での事故対策として前後の妻面に救助網およびバンパーを備える。

この時代の木造ボギー車の通例に漏れず床下台車間には台枠の補強および反りの矯正用として床下に鋼製のクインポストを立て、トラスロッドを通してターンバックルで緊結する構造である。

前照灯は他の兵庫電軌の車両と同様に通常装着しておらず、通常は必要に応じ灯具を前面中央窓下に取り付ける方式[7]である[* 4]

主要機器

車体メーカーは変更されたが、機器構成は前年新製の29形に準じる[1]

主電動機

搭載電動機はアメリカ ゼネラル・エレクトリック(GE)社製の48.5kW(65馬力)直流直巻整流子電動機を各台車1基、1両につき2基ずつ搭載する[1]

駆動装置は吊り掛け式、歯数比は67:19(3.53)である[8]

制御器

制御器として同時代の路面電車で一般的な直列6段、並列5段の直接制御器[9][* 5]を両端デッキ部に各1基搭載する。

台車

台車は軸ばね式2軸ボギーで、アメリカのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)社が設計製作した路面電車用台車であるL形(54-15-L)[11]を装着する[1]

この台車は、軸箱守部に大型の菱形鋼板部品を使用するのが特徴で、汎用品の形鋼材や鋼板を巧みに組み合わせて造られた組み立て式の台車枠を備える。

軸距は54 インチ(1,372 mm)で[12]心皿荷重上限は15000 ポンド(6.8t)、主電動機は台車枠外側に吊り掛けられる[11]

ブレーキ

在来車各形式に準じ、直通ブレーキを搭載する[1]

そのため連結運転には対応しない。

集電装置

やはり在来車各形式に準じ、集電装置として屋根の前後に2組ずつホイール式のトロリーポールを搭載する[13]

運用

新造以来、1948年10月21日の電鉄兵庫 - 電鉄須磨間直流1,500V昇圧工事完了まで、直流600V電化であった兵庫 - 明石間の旧兵庫電軌線(軌道線)区間で常に単行で運用された。

1927年の宇治川電気(宇治電)による兵庫電軌の吸収合併の後、複架線式を採用していた軌道線の神戸市内区間について、単架線化された際[14]には他の旧兵庫電軌在籍各形式と同様に、片側架線用のトロリーポールとトロリーレトリーバーのセットを撤去し、ヴェスティビュール部妻面上部中央の行先表示窓を妻面向かって右側の窓上部に移設する工事を実施されている。

200形第1次車201 - 207が新製された1936年には、台車が本来の54-15-Lから神姫電鉄1形が装着したやはりBLW社製で軸距78インチ(≒1,981mm)、心皿荷重上限27500 ポンド(≒12.5 t)の78-275A 形鋼組み立て式釣り合い梁式台車[* 6]を山陽電気鉄道西代工場で5両分デッドコピーしたものへ交換されている[15]

また同年以降1938年にかけて、本形式5両が搭載した65馬力電動機は来る200形第2次車208 - 212新造時の転用に備え、予備品の1形用GE-87A[* 7]に順次交換されている[3]

1940年には混雑時の両端デッキでの事故防止のため折り戸と折り畳みステップを取り付けてデッキ部を密閉構造化し、中央客用扉の連動折り畳みステップを撤去している[3]

更に1943年には他の旧兵庫電軌車と同様に激化する戦時輸送の中で客室とデッキ間の出入り口を拡大、座席を一部撤去する工事が施工されている[20]

1945年6月9日の第二次空襲[* 8]と、それに続く同年7月7日の第5次空襲に伴う火災[* 9]の2度にわたった明石車庫の被災で39が大破し使用不能となった[* 10]

旧兵庫電軌の直流600V区間専用車としては車体が大きく収容力も大きかったことから、戦後も引き続き明石以東[* 11]の普通車として200形第1・2次車などと共に運用されたが、63800形入線に伴う電鉄兵庫 - 明石間の限界拡大と架線電圧の全線直流1,500V統一の完了で役割を終え1948年に廃車、地方鉄道の車両構造に改造の上で高松琴平電気鉄道(琴電)へ譲渡された[31][3]

なお、この際に台車をBW-1から200形第1・2次車が装着したBW-2[* 12]に振り替えて譲渡されている[11]

琴電では以下の通り付番された。

80形(初代)81 - 84

これら4両は木造車であった事もあり、1967年に全車廃車となった[33]

そのため保存車はなく、全て現存しない。

脚注

参考資料

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI