Wikiwand AI

内藤信良

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 江戸時代前期 - 中期
改名 犬千代(幼名)、信良
 
内藤信良
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永2年11月13日(1625年12月12日)[1]
死没 元禄8年7月23日(1695年9月1日)
改名 犬千代(幼名)、信良
戒名 宝岩院殿静挙供安大居士
墓所 新潟県村上市羽黒口の光徳寺
官位 淡路守、従五位下・摂津守、豊前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
藩 陸奥棚倉藩主
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤信照、母:阿部正次の娘
兄弟 信良、鳥居和俊室、主膳、信全、亀松
妻 正室:奥平忠昌の娘
継室:松平直基の養女
子 岡部正敦室、信貞、内藤信朋正室、女子、信輝
養子:弌信、諏訪頼秋室
テンプレートを表示

内藤 信良(ないとう のぶよし)は、江戸時代前期の大名。陸奥国棚倉藩の第2代藩主。官位は従五位下・豊前守。

寛永2年(1625年)内藤信照の長男として江戸にて誕生した。寛永10年(1633年)に徳川家光に拝謁し、寛永18年(1641年)に従五位下・摂津守となった。寛文5年(1665年)に襲封し、豊前守に改める。寛文11年9月、弟・信全に新田5000石を分与し、このため棚倉藩の所領は4万5000石となった。

寛文13年(1673年)、嫡男の信貞が早世した。後嗣として再従弟の弌信を迎え、延宝2年(1674年)に家督を譲った。

元禄8年(1695年)棚倉において死去、享年71。葬地は棚倉町の光徳寺、のち小石川無量院(廃寺)に改葬されたと伝えられる(『寛政譜』新訂13巻201頁)。現在は村上市の光徳寺に墓所がある。

『棚倉町史 1』は棚倉藩内藤家を「浄土宗の熱狂的な帰依者」と推測し、また念仏講が盛んに行なわれたとしている。また「井上氏」の「検断日記」にこの行事に関する記事があるという(353から354頁)。

系譜

脚注

出典および参考文献

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks