内藤元泰 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長13年8月7日(1608年9月15日)改名 内藤才松丸(幼名)→内藤元泰 凡例内藤 元泰時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 不詳死没 慶長13年8月7日(1608年9月15日)改名 内藤才松丸(幼名)→内藤元泰別名 通称:少輔九郎戒名 日頭立光官位 中務少輔、下総守主君 毛利隆元→輝元藩 萩藩(長州藩)氏族 藤姓安芸内藤氏父母 父:内藤元種妻 正室:熊谷直清の娘継室:市川元好の娘、吉川元栄の娘子 広泰、女(児玉元道室)、元幸、元友、恒安、吉盛テンプレートを表示 内藤 元泰(ないとう もとやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣。 内藤元泰が生まれた安芸内藤氏は、建保4年(1216年)に厳島神社領であった安芸国高田郡長田郷の地頭となって以来、その地を代々領し、中郡衆の一つに数えられた国人。元泰の曽祖父である内藤中務丞元泰の代までに毛利氏の麾下に入っている。 生涯 生年は不明だが、安芸内藤氏当主・内藤元種の子として生まれる。 天文22年(1553年)、内藤家の家領相続を毛利隆元から安堵され、弘治3年(1557年)には周防国河内郷内に30貫目を与えられた。同じく弘治3年(1557年)12月2日、防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、235番目に「内藤才松」と署名している[1]。 永禄7年1月12日(1564年2月24日)、毛利幸鶴丸(後の毛利輝元)を烏帽子親として元服し、曽祖父と同名の元泰を名乗った。 永禄9年(1566年)に毛利氏へ降伏した尼子義久・倫久・秀久兄弟が、内藤氏領内にある内藤氏の祈念寺・円明寺に収容した際、その警備を命じられた。その代わりに、警備を命じられている間の軍役や諸公事を免除されている。 元亀3年(1572年)に浦上宗景を攻めた際には、宇喜多直家への援軍として出陣した備後の国衆の検使に任じられ、天正年間には備前方面を転戦した。 慶長2年(1597年)に嫡男の広泰に所領を譲った。 慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、789番目に「内藤下総守」と署名している[2]。 慶長13年(1608年)8月7日に死去。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 出典 ↑ 『毛利家文書』第402号、弘治3年(1557年)12月2日付、福原貞俊以下家臣連署起請文。 ↑ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。 参考文献 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。 国立国会図書館デジタルコレクション 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。 国立国会図書館デジタルコレクション 舘鼻誠「元就・隆元家臣団事典」河合正治編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月、243-286頁。国立国会図書館デジタルコレクション 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻58「内藤次郎左衛門」、巻150「貫半左衛門」 Related Articles