内間御殿
From Wikipedia, the free encyclopedia
所在地
- 沖縄県中頭郡西原町字嘉手苅上之松42の1、50、51番地
歴史
成立
内間御殿は、尚円王の没後190年に当たる1666年頃に、当時摂政であった羽地朝秀(向象賢)の進言によって、大殿内の屋敷に切妻造の茅葺(2間×3間)の神殿(東江御殿)として建立された[1]。そのとき、御神体として青磁の枕が安置された[3]。当時、東江御殿は竹垣で周辺を囲まれており、まだ石垣積みで囲まれてはいなかった[2]。
王府による聖地化
1689年には、琉球王府の祭祀を司る役所である大美御殿が破損した東江御殿を、樫木を用いた瓦葺の神殿へと改築する[1][2]。これにより、内間御殿は王府に関わる聖地としての価値が見出され、王府により整備されていった[1]。
1706年、西原間切の住民によって、内間御殿の北側に茅葺の神殿(3間×2間半)が普請され、「西江御殿」と呼ばれるようになった。
宝枕盗難事件と石垣の整備
1735年に宝枕が盗まれる事件が発生し、これを機に翌1736年、本殿の屋敷囲いは竹垣から石垣積みに変わり、本門と小門を設け、門扉には閂が取り付けられ、神殿も瓦葺に変えられた[2][3]。
1737年には、西江御殿も瓦葺に改築され、屋敷の周囲には竹垣が張り巡らされるようになった[1]。
1738年には、尚敬王が直筆で書いたとされる「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられた[4]。また、尚敬王が御殿が改修までに到った経緯を刻んだ『先王旧宅碑』が内庭に建てられた[2]。
沖縄戦と復興
太平洋戦争末期の1945年、両御殿は沖縄戦に巻き込まれて焼失し、『先王旧宅碑』も砲弾等により一部を残し損壊した[1]。
1951年には、大屋門中(大殿内一族)やハワイへ移住した一門の寄付により、東江御殿跡はトタン葺の神屋(神殿)に再建された[1]。西江御殿は、西江御殿の御殿守であった伊礼(イリー)門中により、戦後に茅葺の神屋(神殿)へと再建された[1][2]。
1960年、東江御殿は木造のトタン葺(2間×2間)の神屋に再び改修され[1]、1974年には、コンクリートブロック造りの現在の神屋(2間×2間半)に改築されている。改築を行ったのは、大屋門中の当主である中山正雄である[4][2]。
