函館大火
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北海道島の南部、津軽海峡を挟んで本州の対岸に位置する函館の地は北海道内でも古くから和人が移住し、木造家屋が密集する市街地が形成されていた。もとより津軽海峡に面した函館山と北海道本島を結ぶ陸繋砂州上に築かれた市街地は海風を受け続ける立地であり、必然的に大火の危険性は高い。「昭和9年大火」以前より市当局や市民は防火対策には積極的に取り組んでいた。主な防火対策は下記の通りである[2]。
- 1878年(明治11年) - 道路拡幅
- 1880年(明治13年) - 十字路式の導入。二十間坂設置
- 1889年(明治22年) - 上下水道完成
- 1893年(明治26年) - 地下式消火栓設置
- 1907年(明治40年) - 公共建築物の耐火構造化推進
しかし、後述の「昭和9年大火」では有効に機能しなかった。
函館商工会議所によると、度重なる大火の影響によりかつては長年日本一高額な火災保険料が設定されていたが、同会議所が陳情活動をした結果、1953年(昭和28年)に値下げが実現し、北海道内の都市部では札幌市についで2番目、全国平均の水準になった[3]。
函館日日新聞によると、「函館で大火が起きると鍛冶村、神山方面(当時郊外の農村部であった函館市亀田支所管内)から火事場泥棒がくる」との都市伝説が広まった[4]。
函館の大火史
発生の年表
函館市における大火のうち、焼失戸数が1,000戸以上となった例は次のとおりである[1]。
| 年月日 | 焼失戸数 | 備考 |
|---|---|---|
| 1871年10月27日 (明治4年9月12日) |
1,123戸 | 俗に切見世火事と云う。 |
| 1873年(明治6年)3月22日 | 1,314戸 | 俗に家根屋火事という(死者5名)。 |
| 1879年(明治12年)12月6日 | 2,326戸 | 焼跡に対しては前年同様道路の大改革を断行す。魚市場より要塞付近まで焼死者多数あり。 |
| 1896年(明治29年)8月26日 | 2,280戸 | 俗にテコ婆火事という。 |
| 1899年(明治32年)9月15日 | 2,494戸 | |
| 1907年(明治40年)8月25日 | 8,977戸(区役所調べ12,390戸) | 上水道停水中 石川啄木や子母澤寛などが被害に遭い、函館を去った。 |
| 1913年(大正2年)5月4日 | 572棟1,532戸 | 上水道停水中 |
| 1916年(大正5年)8月2日 | 942棟1,763戸 | 上水道停水中 |
| 1921年(大正10年)4月14日 | 1,309棟2141戸[注釈 1] | 上水道停水中 |
| 1934年(昭和9年)3月21日[6] | 11,105棟 | 死者 2,166人、重傷者 2,318人、軽傷者 7,167人 |
大火と都市形成
函館の都市景観は、数度の大火の影響により街路や建築物が変容している[7]。つまり、二十間坂より函館西部地区の町並み以西の地区は、1878年(明治11年)、1879年(明治12年)の大火後の街区改正によってできた都市形態で、この地区の建物は1907年(明治40年)の大火で被災しているため、旧金森洋物店や旧開拓使函館支庁書籍庫など一部の耐火構造建築物を除くほとんどの建物はそれ以降の時期に建設されたものである。なお同地区は、歴史的環境を色濃く残しているところから1988年(昭和63年)9月16日に「歴史的景観地域」に指定され、現在では函館市都市景観形成地域として継承されている。旧函館区公会堂や函館ハリストス正教会(いずれも国の重要文化財)などがこの地区に位置している。1901年に建設された函館どつくレンガ倉庫(旧弁天倉庫)も、この大火災においても焼失を免れ、現在函館に残る最古級の赤レンガ倉庫建築として保存されている。
また、十字街から新川町にかけてのグリーンベルトに代表される街路は、1934年(昭和9年)の大火後の復興事業によって形成されたもので、これは戦前における地方都市の都市計画が実施された数少ない事例である。なおこの地区の建物は、1921年(大正10年)の大火後に建設された耐火構造の建物が一部残っている他は1934年(昭和9年)以降のものである。このように函館の都市景観の特徴は、大火の被災範囲が東へ移行するのと併行しながらも都市景観が帯状に時間差を有して推移していることにある[8]。
大火史上の主な被災建物
- 真宗大谷派函館別院

- 真宗大谷派函館別院は、明治40年函館大火で焼失したため、耐火建築により再建することになった。1915年(大正4年)11月に再建された本堂は日本で最初の鉄筋コンクリート造りの寺院建築となった[9]。
- 台町遊廓・蓬莱遊廓
- 明治40年函館大火で焼失、同年9月27日廃止された。事業者による移転反対運動を経て結局1909年(明治42年)頃には大森町に移転。函館遊廓(大森遊廓、辰巳の里)になる。吉原遊廓を真似て建てたコンクリート製の門、「大門(おおもん)」または「西大門(にしおおもん)」が「大門(だいもん)」と呼ばれるようになり地域名になる[10]。地域名については大門 (函館市)を参照。
- 鶴若稲荷神社
- 1913年(大正2年)焼失。広さ35坪、桧造りの社殿だった[11]。
- 豊川稲荷神社
- 1870年(明治3年)、1899年(明治32年)、1907年(明治40年)、 1934年(昭和9年)の4回焼失[12]。一時函館八幡宮に仮奉遷されたが、1940年(昭和15年)に現在地に社殿が建立され、奉遷された[13]。
- →詳細は「函館八幡宮 § 摂末社」を参照
- 成田山凾館寺(成田山函館別院)
- 昭和9年函館大火で本堂・客殿・庫裡すべてが焼失した[14]。 翌年の1935年(昭和10年)に仮堂を建立、その後1996年(平成8年)に老朽化および開創100周年の節目を迎えたことにより1999年(平成11年)に65年の歳月を経て新本堂を落成した。
- 函館市役所本庁舎(初代、函館区役所庁舎)
- 相馬哲平の用地及び資金の寄付を元に豊川町29番地および33番地に建設された函館区役所庁舎(1903年<明治36年>完成)を転用したが、昭和9年大火で焼失[15]。
- →詳細は「函館市役所」を参照
- 函館測候所(現・函館地方気象台)
- 高砂町(現:若松町)にあったときに1913年(大正2年)に焼失[16]。
- →詳細は「函館地方気象台」を参照
- 函館病院高砂町分院
- 市立函館病院のかつての分院。1927年(昭和2年)1月6日診療開始。昭和9年函館大火で焼失。旧・高砂町10番地3及び旧・音羽町67番地3(現・若松町4番先)[17]。
- 北海道庁函館警察署庁舎(現・函館中央警察署)
- 宝町(現・宝来町)にあったが、明治40年函館大火と昭和9年函館大火の二回焼失している[18]。
- 旧北海道庁函館支庁庁舎

旧北海道庁函館支庁庁舎 - 1893年(明治26年)新築の建物は明治40年函館大火で焼失。現在元町公園内に保存されている「旧北海道庁函館支庁庁舎(Jolly Jellyfish 元町公園店)」は1909年(明治42年)10月落成したもの[19]。
昭和9年函館大火の概要

1934年(昭和9年)3月21日発生。死者2,165人、重傷者2,318人(うちのちに22人が死亡)、被災面積は4.28平方キロメートル、焼失建物数は11,102棟で戸数は20,667戸、罹災世帯数は22,662世帯(うち外国人世帯は86世帯)、罹災人口は推定102,000人とされている。損害額は当時の見積金額で1億2390万8327円である[20]。
被災町丁は当時の町丁名で、谷地頭町、青柳町、春日町、相生町、汐見町、曙町、寿町、末広町、恵比須町、蓬莱町、宝町、東浜町、汐止町、地蔵町、西川町、東川町、栄町、旭町、東雲町、松風町、大森町、鶴岡町、若松町、音羽町、高砂町、新川町、千歳町、宇賀浦町、高盛町、中島町、千代ヶ岱町、的場町、時任町、砂山町、金堀町、真砂町で、他に人見町では一戸焼失した[20]。
主な被災建物は小学校9、女学校6、公官庁12、神社・寺院9、銀行・企業15、劇場3、活動写真館常設館6、演芸場1、病院19である[20]。
気象状況
中国大陸華北地方に発生した低気圧が中国東北部を横断し、20日18時に日本海西部に進んだ[21]。翌21日(災害発生当日)朝に能登半島沖に進み、12時間で20ヘクトパスカル以上も気圧が下がるという急発達をしながら通過し[22]、函館市内は発火時推定南南西の風、最大瞬間風速39m(函館消防組調べ)に及ぶ強風に見舞われていた[23][24]。
参考であるが、函館測候所(現:函館地方気象台、函館市の郊外の旧:亀田村→亀田町→亀田市→函館市美原)による計測では19時20分に最大風速「南南西の風24.2m」を記録した[24]。気象予報士の饒村によると当時は最大瞬間風速を測定していなかったという。2020年(令和2年)の低気圧の最大瞬間風速は、最大風速14.7mの約2倍を計測している、当時の低気圧は南の海域でかつ、より発達したことから、もし測定していたら50mぐらいではと推定している[22]。行政対応の節も参照
火災発生直前
14時頃に強い雨が降り[26]、16時20分頃に風向が南南西に変化すると強風になった[27]。17時に函館消防組が非番者の一部を召集する[26]。17時頃に臨時休業する商店がでて、路線バスの運行見合わせが起きたが路面電車は運行されていた[27]。17時50分頃からは市内6ヶ所で連続的に電線の短絡による火災が発生したが、火災報知器による通報出動で鎮火している[27]。場所は
である[26]。さらに風速は加速し、18時34分に全市が停電になった[27]。NHK函館放送局によると19時すぎに放送局への電力供給が途絶えたという[28]。
火災発生と延焼
- 発見と3度の防御線突破
18時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって屋根が飛び、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった[23]。火災報知網(火災報知器175基[29])の整備もしていたが、強風で断線して機能せず初期消火が遅れた[25]。結局消防組第2望楼が発見し出動、火元付近に第1防御線を設定し消火に当たったが、地域の水道管が末端であり水圧水量が不足し、強風により注水困難で、19時30分頃に突破された[26]。現・函館市企業局交通部谷地頭停留場への路面電車道路を利用して第2防御線を設定して応援の消防車を加えて消火活動を行ったが、これも突破される[26]。函館公園および周辺道路に第3防御線を設定して谷地頭坂上にあった二箇所の防火池を活用し消火に当たったものの突破され全市を巻き込む大火に繋がった[26]。
- 市街地全体へ拡大
木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態だった[30]。苦肉の策で消防車2から3台ごとにチームを作り火の流れが東海岸(函館港とは反対の大森浜)へ向かうように消火活動を行った[26]。
時間の経過とともに風向きは南から南西、そして西風へと時計回りに変っていった。火の流れもそれに従い向きを変えた[30]。西へ変化したのは22時頃である。この頃には風速も衰えてきた。函館公園、二十間坂、豊川町魚市場付近、函館駅前、高砂通り、堀川町電車通り(北海道道83号函館南茅部線)を拠点として消火活動をした[31]。最終的には市街地の3分の1が焼失する規模となった[30]。
20世紀前半の災害であるが、現在も函館市民の記憶に留められる災害であり、2020年(令和2年)現在も火災発生日には慰霊祭が営まれている[32]。大火の影響で囚人90人が解放された[33]ほどの大災害だった。
避難
焼死よりも水死が上回ったのも特徴で、死者の中には亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者917名、また溺死しないまでも凍死した者217名もいた[34][22]。凍死者が出た理由は仮に逃げ延びたとしても翌日朝の氷点下の中で寒風と雪にさらされたからである[25]。一方、風の変化を読み海岸町方面に逃げ助かったとの被災者の証言もある[35]。
- 新川の悲劇
- 五稜郭方面または湯川方面へ避難する場合亀田川(新川)に架かる4つの橋のいずれかを渡らなければならない。それぞれ長さ十数mほどであるが、当時は避難民が殺到しており渡り切るのに30〜40分ほどかかった[36]。河口側から上流側に並べると
- との状況であった。無事渡り切ってさらに避難しようと進もうとしたところ背後から悲鳴と音がした。振り返ると橋が崩壊していたという[36]。
- 函館駅
- 函館駅には5,000人ほどの避難民が殺到したが、この時は青函連絡船桟橋(若松ふ頭)も含めて幸い類焼しなかった[38]。混乱の中、避難列車を1,2番線に待機させ、避難民を駅長の判断で無料で乗せるなど対応をした[39]。鉄道電話は当日23時に途絶[40]。函館新聞(現在の函館新聞とは別の新聞)によると、無料で北海道内に避難したもの1,600人、本州方面に避難したもの500人で、青函連絡船函館桟橋待合室に避難したものは200名に達した(3月24日号外)[41]。
行政対応
- 消防
- 消防職員283名、消防車19台で対応にあたった[42]。
- 警察
- 警察官270名で対応にあたった[42]。急速に火災が拡大し指揮統一が困難で、各警察官が独自の判断で避難誘導にあたった。21日20時50分頃警察庁舎に延焼、留置人45名のうち11名を函館水上警察署(現・函館西警察署)に移し、残りの34名を釈放した。鎮火後全道からの応援を含めて498名体制で死体の収容、罹災者救護、警備などにあたった。函館市内の実業家よりオートバイ5台が寄贈され警備に活用された[43]。
- 函館市役所
- 庶務課職員が22日1時、独自判断により港内浮きドックに入っていた北日本汽船の天佑丸へ向かい、無線にて内務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、北海道長官、東京朝日新聞社、東京日日新聞社、時事新報社、報知新聞社、読売新聞社へ向けた打電を依頼した。これにより救援の手が迅速に及ぶことになった[44][45]。
- 当時の市長、坂本森一は当時の火災保険の契約内容では風速50m以上の場合は補償されなかった。速やかな復興を考え測候所へは風速40mで計測をしないよう要請した[44]。
- 函館刑務所汐見町刑務支所
- 火災に際し被告人87人、受刑者3人を解放。解放後、刑務支所は全焼した[46]。
- 大日本帝国陸軍
- 第7師団歩兵25連隊1個中隊、軍医10人が派遣されたほか、旭川からも工兵50人、救護医官15人、歩兵2個中隊が派遣。毛布や食料の配布、救護活動が行われた[47]。
- 亀田村消防組
- 翌3月22日より食糧など救援物資を荷馬車で運び、新川(亀田川下流)にて焼死した遺体の引き上げ、罹災跡地の整理など行った[48]。
近郊の状況
- 上海岸
- 函館市からみて西側、北斗市南部(旧:上磯町)、木古内町、知内町のことを通称"上海岸"と呼ぶが、西または北にあたり最終的に風上になるため火の粉の飛来や濃煙の立ち込め等はなかった[49]。
- 下海岸
- 函館市からみて旧:湯川町より東側の津軽海峡沿いの漁村部、具体的には旧:銭亀沢村、戸井町、恵山町の地域を通称"下海岸"と呼ぶが、最終的に風向きが西になった際に風下にあたる地域になった。当時は4歳の子供だった住民のものではあるが強風で飛ばされた火の粉が旧:戸井町釜谷まで到達したとの証言が残っている[50]。
影響
交通
この大火では函館の軌道事業(路面電車)も大きな被害を受けている。当時は電力会社でもある函館水電株式会社が運営していた(現在は函館市企業局交通部運営)。3月28日18時に湯川線が運行開始している[2]。函館日日新聞によると、8月14日に十字街停留場 - 谷地頭停留場間、9月1日に東雲町まわりの谷地頭系統(湯川停留場 - 大門前停留場 - <東雲町まわり> - 十字街停留場 - 谷地頭停留場 - 十字街停留場 - <東雲町まわり> - 湯川停留場)と大門前停留場 - 蓬莱交番前停留場系統が再開され、系統と料金体系の復旧がされた(8月4日と9月1日記事)[51]。4月24日時点で同時に稼働できた車両数は電力供給の都合で30両までだった(4月24日記事)[52]。
- 被災車両
- 被災車両は48両[53]。
- 補充車両
- 排形排3号
- 電排4号
- 装形1(通称・花電車、2008年7月30日撮影)
- 装形2(通称・花電車、2008年7月30日撮影)
- 装形3(通称・花電車、2008年7月30日撮影)
商業
大火被害の少なかった中島町へ露店の移転出店したことによる自然発生した商店街が中島廉売である[54]。
復興への道


- 函館港まつり
- 大火により打撃をうけた市民の士気を引き立て、市勢の振興をはかる目的で1935年(昭和10年)より毎年8月に開催されているのが「函館港まつり」である[55]。
- メインイベントは北海道新聞主催の花火大会および、幹線道路を踊りながら練り歩く「ワッショイはこだて」(旧:一万人パレード)で、従来の函館港おどり(第一部)と併せていか踊り(第三部)が踊られる。
- 共愛会の設立と慰霊堂
- 1934年(昭和9年)の大火の義援金の一部をもとに1934年(昭和9年)9月に財団法人共愛会が設立された[44]。復興事業として簡易住宅600戸余の建設や保育所の運営、被災者への授産事業、職業紹介を行った[56]。また遭難死者の霊を追悼する目的で亀田川の大森橋に近接した地に慰霊堂(現:函館市慰霊堂)を建立した。のちに函館市が引き継いだ[57][58]。
- 函館観光協会の設立
- 翌年1935年(昭和10年)に函館国際観光コンベンション協会の前身の函館観光協会が設立。日本経済新聞によると大火により、意気消沈した市民を励まそうとしたことがきっかけとしている[59]。
- 道路計画
- 坂本市長が55m幅の広い道路を縦横に作る提案をした。当時の内務省官僚増田甲子七も支持していたものであるが、横断に苦労するとの市民の反対により実現せず、僅かに幹線道路を作ることにとどまった[44]。
- 防火帯として整備された「都市計画道路3・2・14広小路」の一部区間は多目的広場「はこだてグリーンプラザ(通称・大門グリーンプラザ)」として活用されている[60]。
- 独自の消火栓の開発と設置
- 消火栓は1889年(明治22年)より地下式消火栓を設置していたが、 この大火の反省から欧米を参考に1935年(昭和10年)より防火用水道を設けて、1936年(昭和12年)より独自設計の「函館型三方式地上式消火栓」を設置した[61]。日本国内の消火栓は地下式が8割以上で函館のような地上式は珍しい。雪の中でも目立つよう黄色に塗装されている。バルブは五稜郭を意識し五角形。2023年現在2,500本あり、誕生以来村瀬鉄工所で製作されている[62]。
法的責任
火元の家の女性が法的責任を問われ起訴され、一審の函館区裁判所で罰金100円の有罪判決、二審の札幌控訴院は一審を支持し有罪判決を下したが、最終審の大審院は無罪判決を下した[63]。
碑

時系列
- 1934年(昭和9年)
- 3月20日
- 18時 - 中国華北地方で発生した低気圧が同国東北部を横断、日本海西部に到達
- 3月21日
- 6時 - 低気圧が能登半島沖に進み、987ヘクトパスカル
- 12時 - 低気圧が秋田沖に進み、981ヘクトパスカル
- 16時20分 - 風向が南南西に変化、強風になる
- 17時頃 - バス運行見合わせ、臨時休業する商店が出てくる
- 17時50分頃 - 市内6ヶ所で連続的に電線の短絡による火災が発生したが鎮火
- 18時 - 低気圧が函館沖に進み、965ヘクトパスカル
- 18時34分 - 全市にて停電
- 18時53分頃 - 出火
- 19時頃 - 函館放送局への電力供給が途絶
- 19時20分 - 函館測候所最大風速「南南西の風24.2m」を記録
- 21時40分頃 - 亀田川大森橋崩落
- 21時42分頃 - 亀田川高盛橋崩落
- 21時55分頃 - 亀田川新川橋崩落
- 23時 - 函館駅、鉄道電話途絶
- 3月22日
- 1時 - 市役所職員、函館港内の天祐丸無線通信士へ無線打電依頼、打電が完了
- 朝(時刻不明) - 低気圧がオホーツク海に進み、939ヘクトパスカル
- 3月28日
- 18時 - 函館水電湯川線(郊外路面電車)復旧
- 4月18日 - この日までに東京より中古の路面電車車両10両が到着
- 4月24日 - 路面電車最大同時運行30両体制に(電力供給の都合で制限された)
- 8月14日 - 十字街停留場 - 谷地頭停留場間復旧
- 9月1日 - 函館水電(路面電車)全面復旧
- 3月20日
