滝口宗長 From Wikipedia, the free encyclopedia 滝口宗長(たきぐち(の)むねなが)は、平安時代末期頃の武士[1]。良岑氏流前野氏の始祖とされる前野高長の子[2]。実名は前野宗長であり、前野家2代目当主[2]。滝口宗安の父[2]。滝口武者[1]。 時代 平安時代末期生誕 仁安2年(1167年)死没 承久3年6月14日(1221年7月5日)改名 前野小二郎(初名)→前野右馬入道宗長→滝口右馬入道宗長概要 凡例滝口宗長(前野宗長), 時代 ... 凡例滝口宗長(前野宗長)時代 平安時代末期生誕 仁安2年(1167年)死没 承久3年6月14日(1221年7月5日)改名 前野小二郎(初名)→前野右馬入道宗長→滝口右馬入道宗長別名 通称:右馬入道 / 初名:小二郎実名:前野宗長 / 姓名:良岑宗長官位 正六位下 - 右馬助主君 平忠盛→平忠度氏族 良岑氏流前野氏(滝口氏)父母 父:前野高長兄弟 滝口宗長、羽黒長高、女子子 滝口宗安、前野宗近(土佐坊明俊)、滝口宗俊、滝口定俊、滝口俊明テンプレートを表示閉じる 生涯 京都御所で復元された滝口 前野高長の長男として生まれる[2]。初名は前野小二郎[2]。元服して前野右馬入道宗長を名乗る[2]。尾張国丹羽郡小弓荘(現在の愛知県犬山市内)の荘園の主となった。 叔母が平忠盛の側室となり、忠度を産んだため、由縁を求めて京都へ移る[1]。後に平忠盛・忠度父子に仕えることを許され滝口武者へと出世し、承元4年(1210年)3月、帝から勅許を得て滝口氏を名乗る[2]。弟の羽黒長高や従弟の下野高助ら一族郎党を率いて京都御所の滝口を本拠とし、御所北門を警護した[2]。 宗長は、前野氏で最初に武門の基礎を築き[2]、子の宗安や孫の時綱などが弓術、馬術などを発展させていった。 承久3年(1221年)6月14日、源有雅に属し宇治にて戦う(承久の乱)が、戦死した。 氏族 前野氏は、桓武天皇皇子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統である[2][3]。良岑高成(立木田高成)の子であり宗長の父である高長が尾張国丹羽郡稲木庄を前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に改称して、前野大夫と号して移住した。宗長の孫である前野時綱が正式に前野氏を名乗ったとされている[2]。 宗長の父の高長の代までは豪族であり、宗長の代から武士の家系となった[2]。 子孫 前野家文書『武功夜話』によると宗長は、後の関白豊臣秀次付筆頭家老前野将右衛門長康(坪内光景)や、関ヶ原の戦いで石田三成隊先鋒として戦った前野兵庫助忠康(舞兵庫)の先祖にあたる[2]。また、『水戸黄門』に登場する介さんのモデルとなった儒学者の佐々宗淳や、新撰組の前野五郎も宗長の子孫である[1][4]。 系譜 父:前野左兵衛尉高長 母:不詳 妻:不詳 長男:前野左兵衛尉宗安(滝口宗安) 次男:前野二郎宗近(法名:土佐坊明俊(沙弥明俊)。子に前野右近介定俊(土佐坊定俊(沙弥定俊))、前野二郎宗光、前野左兵衛尉高近) 三男:滝口宗俊 四男:滝口六郎定俊 五男:滝口俊明 脚注 出典 [1]前野家文書『武功夜話』(『家伝記』『南窓庵記』) [2]『尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図』 [3]『尊卑分脈』(『良岑氏系図』) [4]『新撰組隊士録』 外部リンク “前野家|一万人の戦国武将”. 2021年7月24日閲覧。 Related Articles