源有雅

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時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 安元2年(1176年
別名 佐々木野(号)
 
源有雅
源有雅像(『中殿御会図』より)
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 安元2年(1176年
死没 承久3年7月29日1221年8月18日
別名 佐々木野(号)
墓所 (伝)山梨県甲府市小瀬町
官位 正二位権中納言、贈従一位
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源雅賢、母:藤原信経の娘
兄弟 有雅
藤原信家の娘、藤原憲子藤原範光の娘)
敦賢資雅済賢済稚有尊朝有
女子(九条道家室)、女子(大宮局、土御門天皇宮人
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源 有雅(みなもと の ありまさ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿宇多源氏参議源雅賢の長男。官位は正二位権中納言従一位佐々木野を号し、佐々木野中納言と呼ばれた。

源有雅の墓(山梨県甲府市小瀬町)

後白河院政期末の文治5年(1189年侍従に任官し、建久元年(1190年)父・雅賢参議辞任と替わって右近衛少将に任ぜられる。

建久3年(1192年)出仕をしないために除籍される。のち出仕を再開したらしく、建久8年(1197年従五位上に叙せられると、正治元年(1199年正五位下建仁元年(1201年従四位下、建仁3年(1203年)には従四位上・右近衛権中将、元久元年(1204年正四位下と近衛次将を務めながら昇進を重ねた。建永2年(1207年蔵人頭に補任されることとなったが、問題が発生して最終的には滋野井実宣が任ぜられている[1]

承元2年(1208年)蔵人頭に補任され、承元3年(1209年参議に任ぜられ公卿に列す。参議昇進後も引き続き中将を兼ね、承元4年(1210年従三位建暦元年(1211年正三位に叙せられた。建暦2年(1212年権中納言に昇任され、右兵衛督検非違使別当も兼帯した。建保元年(1213年)には蹴鞠で使用する紫色の革のの着用を聴されている[2]。建保3年(1216年)に官職を辞退して従二位に昇叙され、建保6年(1219年正二位に至った。なお、出雲国知行国としていた。

承久3年(1221年)に承久の乱が発生。後鳥羽上皇の寵臣であった藤原範光の娘で、順徳天皇乳母であった憲子を妻に迎えていたことから、有雅は上皇の近臣となっており、その縁から上皇側の将として宇治にて戦うが敗退。出家して恭順の意を示すが鎌倉に送られる。甲斐国武将小笠原長清の預かりとなり、護送の途中で甲斐国に下着。ここで有雅は長清に、少しの縁故があり、二品禅尼(北条政子)に助命を懇願するのでしばらく死刑の執行を待ってほしい、と長清に願い出るが受け入れられず、7月29日に同国稲積庄小瀬にて斬られた。享年46。政子はこの有雅の懇願を受け入れ、斬首後しばらくして死刑を免除するべきとの手紙が届いたという[3]

山梨県甲府市小瀬町の小瀬団地内に残る富士塚は有雅の霊を祀るものとされ[4]、南東方には幽閉地と伝える久品山浄福寺跡がある。静岡県御殿場市新橋の藍澤五卿神社明治10年1877年高杉太一郎らの創建で、有雅と、同じく承久の乱で処刑された葉室宗行藤原光親藤原範茂一条信能を祀っている。

人物

代々雅楽をする家に生まれ、右馬頭源資時より神楽を習う。父・雅賢からは和琴催馬楽を伝授され嫡男・資雅に伝えている。

官歴

公卿補任』による。

系譜

脚注

参考文献

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