劉信 (五代)
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若くして従軍し、龍武軍小校に昇進した。劉知遠が太原府に駐屯すると、劉信は興捷軍都将となり、龔州刺史を遥領し、検校太保を加えられた。天福12年(947年)、後漢が建国されると、劉信は侍衛親軍馬軍都指揮使・検校太傅に任じられ、義成軍節度使を兼ねた。ほどなく忠武軍節度使に転じ、太尉・同平章事を加えられた。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、劉信は検校太師を加えられた。乾祐2年(949年)、関中の反乱を平定して、侍中を加えられた[1][2]。
劉信は愚昧惰弱な性格で、収賄に飽くなく、過酷な法律の執行を喜んだ。禁軍を管掌したとき、側近に罪を犯した者があると、劉信はその妻子を召し出して、犯罪者を切り裂かせ、その肉を食らわせた。あるいは足から首にいたるまでバラバラにし、血流が前に満ちるのを、酒を飲みながら楽しむよう命じ、心乱すようすがなかった。地方に駐屯すると、収奪に節度がなく、民衆を苦しめた。乾祐3年(950年)、劉信は楊邠や史弘肇らが殺されたと聞くと、宴席を開いて幕僚たちを集め、互いに祝わせた[1][2]。
まもなく隠帝が郭允明に殺害されると、劉信は憂憤のため食事を取ることができなかった。ほどなく湘陰郡公劉贇を立てるよう李太后の教令が出されると、劉信の子に命じて徐州に劉贇を迎えに出させた。数カ日後、陳思譲が騎兵を率いて城西を通り過ぎ、供応を命じられたが、劉信はあえて城を出なかった。ほどなく澶州で兵変が起こると、王峻が前申州刺史の馬鐸を派遣して許州の巡検に赴かせた。馬鐸が軍を率いて入城すると、劉信は恐怖にかられて自殺した。後周の広順元年(951年)、蔡王に追封された[3][4]。