劉崇亀
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咸通6年(865年)、進士に及第した。官を歴任して起居舎人となった[2]。乾符2年(875年)、礼部員外郎に任じられた[3]。のちに兵部員外郎に転じた。母が死去したため、崇亀は官を辞職して喪に服した。広明元年(880年)、鄭従讜が宰相を退任し、河東節度使に任じられると、崇亀はその推挙を受けて河東支度判官・検校吏部郎中・御史中丞となった。中和3年(883年)、長安に入朝して、兵部郎中となり、給事中に任じられた。大順元年(890年)、左散騎常侍・集賢院学士・判集賢院事をつとめ、戸部侍郎・検校戸部尚書に転じた[2]。乾寧元年(894年)、広州刺史・清海軍節度・嶺南東道観察処置等使として出向した[4]。乾寧2年(895年)、死去した[5][6]。