劉崇魯
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広明元年(880年)、進士に及第した。河東節度使の鄭従讜の推挙により河東節度推官をつとめた。ときに兄の劉崇亀が河東支度判官となり、兄弟が幕府に同居した。ほどなく崇魯は掌書記に転じた。中和2年(882年)、入朝し、右拾遺・左補闕に任じられた。景福元年(892年)、水部員外郎・知制誥となった。景福2年(893年)、杜譲能が失脚し、韋昭度が宰相となって、礼部尚書の李磎を推薦した。崇魯は宰相の崔昭緯と仲が良く、崔昭緯は李茂貞の後援を受けていた。崔昭緯は朝廷の権力を掌握しようとしたが、李磎が昭宗の文学の師として恩寵厚かったため、崇魯と謀って李磎を排除しようとした。崇魯は削藩を強行して失敗した杜譲能の轍を踏んではいけないといって、李磎の入閣を阻止しようとした。李磎は崔昭緯の誣告を受けて、たびたび冤罪を訴えた。乾寧元年(894年)、李磎が宰相となった。乾寧2年(895年)、崔昭緯は李茂貞・王行瑜・韓建の3節度使を誘って長安に乱入させ、韋昭度と李磎を殺害させた。この年、王行瑜が李克用に殺害されると、崔昭緯は左遷され、崇魯も連座して崖州司戸参軍に流された[2][3]。