劉崇望
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咸通15年(874年)、進士に及第した。王凝が宣歙観察使となると、崇望は召し出されて転運巡官をつとめた。戸部侍郎の裴坦が塩鉄使を領知すると、崇望は召し出されて参佐をつとめた。崔安潜が忠武軍節度使・剣南西川節度使に任じられると、崇望は兄弟4人とともに崔安潜の幕下にあった。入朝して長安県尉となり、弘文館に宿直し、監察御史・右補闕・起居郎・弘文館学士・司勲員外郎・吏部員外郎を歴任した。崔安潜が吏部尚書となると、崇望は判南曹をつとめ、吏部を粛正した。田令孜が宰相となると、藩鎮の不満が高まり、とくに河中節度使の王重栄が朝廷の統制を離れていた。ときに僖宗は興元府に避難していたが、崇望を諫議大夫として、王重栄への使者として派遣した。崇望は王重栄の説得に成功して、朝廷に恭順させた。崇望は帰朝すると、宮中に入って翰林学士となり、戸部侍郎・翰林学士承旨に進んだ。のちに兵部侍郎に転じた[3][2]。
龍紀元年(889年)1月、崇望は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[4][5]。3月、中書侍郎に任じられた。11月、吏部尚書を兼ねた[6]。大順元年(890年)、同僚の宰相の張濬が河東節度使の李克用を討とうと計画したため、崇望はこれに反対した。出兵を阻止できず、張濬は敗れた[7][2]。大順2年(891年)1月、崇望は判度支をつとめた。2月、門下侍郎となった[6]。10月、尚書右僕射となった[8]。
景福元年(892年)、楊復光の養子で玉山軍使の楊守信(訾信)が楊復恭に協力する名目で長安に兵を進め、通化門に陣を布いた。昭宗は延嘉門に禁軍を出し、その夜に崇望に度支庫を守るよう命じた。翌日の明け方、崇望は含光門に入った。門内の禁軍は門が開くのを待って、両市を略奪しようとしていたが、崇望は反乱軍を殺して功名を立てるよう説得した。将士たちが崇望に従って長楽門にいたると、楊守信の兵は逃亡し、軍士たちは万歳を叫んだ。ほどなく崇望は尚書左僕射を加えられた[9][10]。
ときに宣武軍節度使の朱全忠が徐州や泗州を兼併しようと感化軍節度使の時溥と争っていた。朱全忠が重臣を徐州に派遣するよう上表したので、崇望は検校司徒・同平章事・武寧軍節度使として徐州に向かった。時溥が交代を受け入れなかったため、崇望は華陰県まで来て引き返し、太常寺卿に任じられた。乾寧2年(895年)、河中節度使の王重盈が死去すると、王珂と王珙が後継を巡って争った。李克用が王珂を後援し、李茂貞らが王珙を後援した。朝廷は宰相の崔胤を河中節度使として赴任させた。李克用は奏官の薛志勤を通じて、「崔胤は劉崇望に及ばない」と言わせた。李茂貞・王行瑜・韓建の3節度使の兵が長安に乱入し、大臣を殺害すると、薛志勤の言が咎められて、崇望は責めを負って昭州司馬に左遷された。王行瑜が殺害されると、李克用の上表により崇望は罪無くして放逐されたと朝廷に認められた。崇望はすでに荊南まで下っていたが召還され、吏部尚書に任じられた。長安に到着しないうちに、王溥が宰相となり、吏部尚書を兼ねたことから、崇望は兵部尚書に転じた[9][11]。
乾寧4年(897年)、剣南西川節度使の王建が剣南東川節度使の顧彦暉を攻撃して自殺に追い込んでいた。光化元年(898年)、崇望は検校尚書右僕射・同平章事・梓州刺史・剣南東川節度使に任じられた。着任しないうちに、王建が王宗滌を知留後としたことから、崇望は召還され、再び兵部尚書となった[9][11]。光化3年(900年)7月2日、死去した[12]。享年は62。司空の位を追贈された[9][11]。