当時、南匈奴は并州において左・右・南・北・中の五部に分かれて生活しており、それぞれに部帥を置いていた。『魏書』において劉猛は北部帥と記されているが、『晋書』武帝紀・杜預伝では匈奴帥、胡奮伝では中部帥、四夷伝では単于、『資治通鑑』では右賢王となっており、一定していない。このうちの単于について、内田吟風の『北アジア史研究』では、「劉猛は単于ではなく、五部帥の中の一人右賢王であり、恐らくは単于を自称したため」としている。確かに史書において、南匈奴の単于は呼廚泉以降、単于位を継いだという記録が一切ない。