羌渠
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光和元年(178年)、同族の呼徴が単于に即位すると、羌渠は右賢王となる。
光和2年(179年)、単于呼徴が使匈奴中郎将の張脩に殺されると、代わりに羌渠が張脩によって単于に立てられた。
中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、羌渠は右賢王於夫羅の率いる援兵を派遣し、漢朝を援助した。
中平4年(187年)、前中山太守の張純が烏桓・鮮卑とともに反乱を起こすと、ふたたび羌渠は霊帝の詔により幽州牧の劉虞に従い、左賢王に兵力を授け援軍に赴かせた。しかし、南匈奴の国人は羌渠が兵の動員をつづけて止めないだろうと恐れ、中平5年(188年)3月、右部の醢落は休屠各胡の白馬銅ら10万余人とともに叛き、羌渠を殺した。
羌渠の後は子の右賢王於夫羅が立った。しかし、南匈奴の国人たちは匈奴の貴種である須卜部に属する骨都侯の須卜骨都侯を立てた。
