劉知謙
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生涯
青年時代は広州の牙将であった[3]が、嶺南東道節度使の韋宙に見出され、その姪の韋氏を娶った[4]。乾符5年(878年)に黄巣が広州に侵攻して嶺南の治安が乱れると、たびたび群盗を討伐して功績を挙げた。それにより中和3年(883年)に封州刺史・賀江鎮遏使に任じられ、梧州・桂州以西を管轄した。劉知謙は兵士と財を蓄え、数年後には精兵1万人と戦艦100余艘を得たとされる[3]。
乾寧元年(894年)11月に死去した。『南漢書』によれば、劉知謙は病床に息子たちを集め、「いま、五嶺(広東・広西)ではいたるところで盗賊が決起している。我には精鋭の兵士と武器がある。汝らは努めて功を建てよ。時機を逃してはならぬ」と言い残したという。南漢成立後に聖武皇帝の諡号[3]、代祖の廟号をもって追尊された。