父の劉潤はチンギス・カンに仕えた邢州録事である。
17歳のとき故郷の邢州節度使府令史に命じられる。だが吏事を好まずすぐに出家してしまった。後に雲中で臨済宗の海雲印簡禅師の知遇を得て、その推挙でチンギス・カンの孫であるクビライに仕え、主に行政面で主要な役割を果たした。至元元年(1264年)に還俗して光禄大夫に任命される。以後、姚枢と共にクビライのブレーンとして元の国号の制定から漢風制度の王朝整備、中統の年号制定、紙幣の発行による通貨政策、元の首都である大都建設など枢機に携わった。至元11年8月19日(1274年9月20日)に59歳で死去。