李徳輝
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李徳輝は5歳の時に父を亡くし、また凶作に遭うなど、貧しい暮らしの中でも読書を絶やさず成長した人物であった[1]。
その後、劉秉忠の推薦を受けてクビライに仕えるようになり、その息子のチンキムの講読を務めた[2]。1253年(癸丑)、モンケによりクビライは京兆地方を投下領として与えられると、「よく財賦を理する者」として李徳輝は領地の運営に携わるようになった。このころ、陝西方面では汪世顕が利州に駐屯して南宋領四川への侵攻を担当しており、李徳輝はこの四川方面軍への補給も担当するようになった。また、1259年(己未)の州の戦いにおいても後方補給を担当している[2][3]。
1260年(中統元年)、クビライが即位すると李徳輝は燕京宣撫使に任じられた[2]。このころ、燕京一帯では鈔の偽造、盗賊の横行などにより治安が悪化しており、李徳輝はこれらの問題の改善に努めた。しかし、平章の王文統と対立したことで、一度は地位を逐われてしまった[4][5]。
1264年(至元元年)には太原路総管の地位を授かったが、クビライは「太原が難治の地」であるために、特に李徳輝を選んで任命したという。1268年(至元5年)には右三部尚書の地位に遷り、罪を犯した者をある貴人が庇おうとしたが、李徳輝は毅然として処罰を行ったとの逸話が伝えられている[6]。
このころ、クビライの息子の一人のマンガラが安西王に封ぜられて旧西夏国領(タングート地方)を統括するようになっており、李徳輝はその補佐として安西王相に任じられた。安西王相に着任した直後には、王府への食糧供給を目的とした屯田開拓に携わっている[7]。1275年(至元12年)からは四川方面への出兵に加わり、重慶府を包囲・陥落させた上、成都府にまで至った[8]。この四川侵攻は東川行枢密院・西川行枢密院の連携によって進められていたが、両行枢密院は争って兵食方略を受けようとしたため、李徳輝はこれを戒めた。しかし李徳輝の懸念は的中し、一度投降した瀘州が背いてしまったことにより、重慶府を占領したモンゴル軍も潰走する事態となってしまった[9]。
1277年(至元14年)、李徳輝は西川行枢密院副使・兼安西王相に任じられ、成都府に残留して四川平定軍の兵站を担うこととなった。1278年(至元15年)、モンゴル軍は再び重慶府を攻略し、紹慶府・南平軍等の諸山壁・水柵を平定した。この時、李徳輝は捕虜を解放して合州の将の張玨に対する使者とし、最終的に戦わずして合州を投降に至らせ、四川方面の平定を完了した[10]。
1280年(至元17年)には新設の安西行省の左丞に任命され、同年中には羅氏鬼国(現在の貴州省。モンゴル語での呼称はチコトル)の反乱を雲南・湖広・四川から微発した3万の兵で平定することとなった。しかし李徳輝は武力衝突を避けて投降を促す使者を派遣したところ、羅氏鬼国の酋長の阿察は李徳輝の名を知っており、「その言は信じ侍むべきである」と述べて投降を決意した。自ら播州の李徳輝の下を訪れた阿察は泣きながら自らの立場を訴え、李徳輝もその言を受け入れて朝廷に報告したところ、羅氏鬼国地方には順元路が設置され、その酋長はその宣撫使に任じられることとなった。好条件でモンゴルに降ることとなった羅氏鬼国の民は馬千匹を朝廷に献上し、これを受けてクビライは李徳輝の功績をたたえたという[11]。
李徳輝が63歳にして死去したとき、羅氏鬼国の民は自らの親を亡くしたように哀しみ、李徳輝を祀るために集まった者たちの声が山谷に響いたという。後に播州安撫使の何彦は現地の民を率いて李徳輝を祀る廟を立てている[12]。
脚注
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「李徳輝字仲実、通州潞県人。生五歳、父且卒、指徳輝謂其家人曰『吾為吏、治獄不任苛刻、人蒙吾力者衆、天或報之、是児其大吾門乎』。及卒、徳輝号慟如成人。適歳凶、家儲粟纔五升、其母舂蓬稗・炊藜莧而食之。徳輝天性孝悌、操履清慎、既就外傅、嗜読書、束于貧、無以自資、乃輟業。年十六、監酒豊州、禄食充足甘旨、有餘則市筆札録書、夜誦不休。已乃厭糟麹、歎曰『志士顧安此耶。仕不足以匡君福民、隠不足以悦親善身、天地之間、人寿幾何、悪可無聞、同腐草木也』。乃謝絶所与游少年、求先生長者講学、以卒其業」
- 1 2 3 牧野 2012, p. 360.
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「時世祖在潜藩、用劉秉忠薦、使侍裕宗講読、乃与竇黙等皆就辟。癸丑、憲宗封宗親、割京兆隷世祖潜藩、択廷臣能理財賦者俾調軍食、立従宜府、以徳輝与孛得乃為使。時汪世顕宿兵利州、扼四川衿喉、以規進取、数万之師仰哺徳輝。乃募民入粟綿竹、散銭幣、給塩券為直、陸挽興元、水漕嘉陵、未期年而軍儲充羡、取蜀之本基于此矣」
- ↑ 牧野 2012, p. 314.
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「中統元年、為燕京宣撫使。燕多劇賊、造偽鈔、結死党殺人。徳輝悉捕誅之、令行禁止。然事多不白中書、由是忤平章王文統意、去位。三年、文統以反誅、徳輝遂起為山西宣慰使。権勢之家籍民為奴者、咸按而免之、復業近千人」
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「至元元年、罷宣慰司、授太原路総管。時潜藩故傅相無有出為二千石者、帝以太原難治、故以徳輝為守。至郡、崇学校、表孝節、勧耕桑、立社倉、一権度、凡可以阜民者無不為之。嘉禾瑞麦、六出其境。五年、徴為右三部尚書。人有訟財而失其兄子者、徳輝曰『此叔殺之無疑』。遂竟其獄。権貴人為請者甚衆、徳輝不応、罪状既明、請者乃慚服。七年、帝以蝗旱為憂、命徳輝録囚山西・河東。行至懐仁、民有魏氏発得木偶、持告其妻挾左道為厭勝、謀不利於己。移数獄、詞皆具。徳輝察其冤、知其有愛妾、疑妾所為、将搆陥其妻也。召妾鞫之、不移時而服、遂杖其夫而論妾以死」
- ↑ 松田 1979, p. 66.
- ↑ 松田 1979, p. 45.
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「皇子安西王鎮関中、奏以徳輝為輔、遂改安西王相。至則視瀕涇営牧故地、可得数千頃、起廬舎、疏溝澮、假牛・種・田具与貧民二千家、屯田其中、歳得粟麦芻藁万計。十二年、詔以王相撫蜀。時重慶猶城守不下、朝廷各置行枢密院于東・西川、合兵万人囲之。徳輝至成都、両府争遣使咨受兵食方略、徳輝戒之曰『宋已亡矣、重慶以弾丸之地、不降何帰。政以公輩利其剽殺、民不得有子女、懼而不来耳。嚮日兵未嘗戰、中使奉璽書来赦、公輩既不能正言明告、厳備止攻、以須其至、反購得軍吏杖之、偽為得罪、使懼而叛去、水陸之師雷鼓継進、是堅其不下也。中使不諭詐計、竟以不奉明詔復命。如是者、非玩寇而何。況復軍政不一、相訾紛紛、朝夕敗矣、豈能成功哉』。徳輝出、未至秦、瀘州叛、而重慶囲果潰、再退守瀘州」
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「十四年、詔以徳輝為西川行枢密院副使、仍兼王相。諸軍既発、徳輝留成都給軍食。是年、復瀘州。十五年、再囲重慶、踰月抜之、紹慶・南平・夔・施・思・播諸山壁水柵皆下。而東川枢府、猶故将也、懲前与西川相観望致敗、悪相属、願独軍囲合州。徳輝乃出合俘繋順慶獄者縦之、使帰語州将張玨、以天子威徳遠著、宋室既亡、三宮皆北、我朝含弘、録功忘過、能早自帰、必取将相、与夏・呂比。又為書、以礼義禍福反復譬解之、以為『汝之為臣、不親于宋之子孫、合之為州、不大于宋之天下、彼子孫已挙天下而帰我、汝猶偃然負阻窮山、而曰吾忠于所事、不亦惑哉。且昔此州之人不自為謀者、以国有主、耻被不義之名、故爾得制其死命。主今亡矣、猶欲以是行之、則戯下盗遇君、窃君首以徼福一旦、不難也』。玨未及報、而徳輝還王邸。既而合州遣李興・張郃十二人詗事成都、皆獲之、釈不殺、復為書縦帰、使諭其将王立如諭玨者、而辞益剴切。立亦計夙与東府有深怨、懼誅、即使興等導帥幹楊獬懐蝋書、間至成都降。徳輝従兵纔数百人赴之、東府害其来、皆曰『公昔為書招玨、誠亦極矣、竟無功而還。今立、玨牙校也、習狙詐不信、特以計致公来、使与吾争垂成之功、延命晷刻耳、未必誠降』。徳輝曰『昔合以重慶存、故力可以同悪、今已孤絶、窮而来帰、亦其勢然。吾非攘人之功者、誠懼公等憤其後服、誣以嘗抗蹕先朝、利其剽奪、而快心于屠城也。吾為国活此民、豈計汝嫌怒為哉』。即単舸済江、薄城下、呼立出降、安集其民、而罷置其吏、合人自立而下、家絵事之。川蜀平、復以王相還邸」
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「十七年、置行中書省、以徳輝為安西行省左丞。是年、西南夷羅施鬼国既降復叛、詔雲南・湖広・四川合兵三万人討之。兵且圧境、徳輝適被命在播、乃遣安珪馳駅止三道兵勿進、復遣張孝思諭鬼国趣降。其酋阿察熟徳輝名、曰『是活合州李公耶、其言明信可恃』。即身至播州、泣且告曰『吾属百万人、微公来、死且不降、今得所帰、蔑有二矣』。徳輝以其言上聞、乃改鬼国為順元路、以其酋為宣撫使。其後有以受鬼国馬千数譖徳輝于朝者、帝曰『是人朕所素知、雖一羊不妄受、寧有是耶』」
- ↑ 『元史』巻163列伝50李徳輝伝,「徳輝卒年六十三、蛮夷聞訃、哭之哀如私親、為位而祭者動輒千百人。合州安撫使王立、衰絰率吏民拝哭、声震山谷、為発百人護喪興元。播州安撫使何彦請率其民立廟祀之」