姚枢
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金朝の許州録事判官の姚淵の子として生まれた。金朝の支配下にあった華北出身の漢人で、若い頃から文学者としての声望が高かった。1233年、楊惟中の推挙を受けてモンゴル帝国に仕えるようになる[1]。クビライに仕えるまでは政治的にあまり目立ったような功績は無く、金朝や南宋における文学者の保護を行なっている[2]。1241年には一時的に失脚していることから、オゴデイ没後に漢人排斥を行なったグユクやモンケらに追われたと見ることができる。
モンケの即位後、クビライが次第に頭角を現すと、そのチェルビ(側近)となった。そして大理遠征や南宋遠征などに従軍し、参謀として多くの献策を行なっている。モンケの没後はクビライの擁立に尽力し、モンゴル帝国を中国化の王朝にするため、既得権力者の廃止や州県制度の設立など、元朝設立に大きな功績を挙げた。
至元5年(1268年)から南宋に対する大規模な遠征が始まると、クビライに適切な献策を行なっている。また日本遠征や陳朝遠征などでも的確な献策を行ない、クビライ配下の漢人ブレーンの中でも最も厚い信任を受けた。
至元17年(1280年)、死去した。享年は81。至大3年(1310年)、元朝より嘉猷程世旧学功臣・栄禄大夫(従一品)・太師・開府儀同三司・魯国公とされ、文献と諡された。