加登川幸太郎
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北海道上川郡当麻町出身[2][3][4]。屯田兵・農業、加登川春吉の長男として生まれる[2][4]。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)を経て、1930年(昭和5年)7月、陸軍士官学校(42期)218名中を皇王族(恒德王・李鍵公)を除いて9番の成績で卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる[2][3]。1938年(昭和13年)5月、陸軍大学校(50期)卒業後、戦車学校教官に就任した[2][3]。
その後、北支那方面軍参謀を務め、太平洋戦争時には陸軍省軍務局軍事課員(予算班)、第2方面軍、第35軍、第13軍参謀としてニューギニアの戦い、レイテ島、インドシナ、中国を転戦し中佐で敗戦をむかえる[2][3]。1946年(昭和21年)7月に復員した[2]。
1947年から1950年までGHQ戦史課に勤務し、その後1952年から1967年まで日本テレビに勤務し編成局長[2]。並行して戦史研究家として著作に取り組む。主な著作に帝国陸軍機甲部隊、戦車、三八式歩兵銃やサンケイ出版の『第二次世界大戦シリーズ』やドイツ装甲師団とグデーリアンなど特に機甲部隊に関係する著書や訳書を数多く遺した。日本戦車の父といわれる原乙未生や海上護衛総司令部の大井篤とも交友があり、日本の戦車の運用方法に疑問を持っていたとされている。