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加藤信夫 (野球)

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出身地 日本の旗 日本 愛知県
生年月日 1917年4月2日
没年月日 戦死
身長
体重
160[1] cm
56[1] kg
加藤 信夫
基本情報
出身地 日本の旗 日本 愛知県
生年月日 1917年4月2日
没年月日 戦死
身長
体重
160[1] cm
56[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手、三塁手、捕手[2]
プロ入り 1936年
初出場 1936年7月11日
最終出場 1937年11月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

加藤 信夫(かとう のぶお、1917年4月2日[2] - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手。

中京商業学校(現:中京大学附属中京高等学校)在学中、チームは甲子園に3回出場(1933年春、1933年夏、1934年春)したが、加藤自身は補欠だった[2]。

中京商を卒業後、1936年に専修大学に入学。しかし、同年7月に佐々木政の斡旋により大阪タイガースに電撃入団(このため、専大を僅か半年で中退せざるを得なくなった)。この入団の裏には滝野通則(後にプロ野球審判員)が契約不履行を犯し(タイガースと契約し選手登録も済んだが、許可なく法政大学に進学した)、職業野球聯盟から除名処分(滝野が除名第一号選手でもある)を受けたため、阪神の内野陣が不足した事情があったと言われている[2]。

入団後は小島利男の入団・台頭や藤村富美男のコンバート(投手から二塁手へ)があったことも影響して、出場機会にはほとんど恵まれなかった。選手としては18試合(捕手1試合、二塁手10試合、三塁手1試合)[2]の出場にとどまった。一方で、裏方としてチームを支えた面もあり、1937年には青木正一と共に「打倒沢村」をモットーに打撃投手役を務めた。その練習法とは、通常の投球位置の1m手前から投げるという当時では斬新な物だった[3]。練習の甲斐があって、タイガースはこの年のペナントを制した。

1938年1月に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

詳細情報

年度別打撃成績

年

度
球

団
試

合
打

席
打

数
得

点
安

打
二
塁
打
三
塁
打
本
塁
打
塁

打
打

点
盗

塁
盗
塁
死
犠

打
犠

飛
四

球
敬

遠
死

球
三

振
併
殺
打
打

率
出
塁
率
長
打
率
O
P
S
1936春 大阪 21100000000--0--0--00--.000.000.000.000
1936秋 62210000020--0--0--00--.000.000.000.000
1937春 64311000100--0--1--02--.333.500.333.833
1937秋 42221000100--0--0--00--.500.500.5001.000
通算:2年 189842000220--0--1--02--.250.333.250.583

背番号

  • 20 (1936年 - 1937年)[2]

脚注

関連項目

外部リンク

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