加藤家 (伯爵家)
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尾張在住期の加藤家
第24代内閣総理大臣の加藤高明が養子に入った加藤家は尾張藩士だった家系だが、同家の歴史は古くに遡ることはできず、江戸時代後期からの系図しか判明しない。加藤高明が男爵に叙されて初めて華族に列した際、宮内省宗秩寮から系図の提出を求められたのだが、加藤家には古い系図は伝わってなかったので、高明は名古屋の古老たちに加藤家の先祖のことについて聞いて回ったものの、結局よくわからなかったという。この際に高明は「要するに加藤家の本家・分家・先祖累代中、余の右に出づる人物は無かったのであらう」と友人に述べている[2]。
尾張国の出身で加藤を名乗った著名人といえば加藤清正や加藤嘉明があるが、高明の加藤家が彼らの家と関係があるのかは分からない[2]。
加藤家について判明しているもっとも古い情報は、同家が高明から4代前の加藤武兵衛によって起こされた家であるということである。同人には加藤家の家督を継いだ兄万吉(大番頭・知行100石)があったが、武兵衛は弓の名手だったため、次男ながらに御弓役に任じられて70俵を与えられ、名古屋の南伏見町で分家を許されたとのことである。この初代武兵衛は文政7年(文政7年(1824年))に死去している[2]。
その子久兵衛も武芸の達人であったといい、大番頭を務めている。その子武五郎は逆に好学の士だったといわれ、祐筆になっている[3]。武五郎が若くして死んだので弟の加藤武兵衛が同家4代目として相続する。彼が加藤高明の養父となる人物である。武兵衛は尾張藩内で大番頭56俵という微禄の士であった。70俵から減っているのは、安政2年(嘉永7年/安政元年/安政2年(1855年))に行われた尾張藩の財政整理により藩士たちの俸禄が減俸された結果である[3]。
加藤高明伯爵家

加藤高明は、尾張藩士だった服部重文の次男であり[注釈 1]、明治5年(1872年)に加藤武兵衛の養子に入っている[5]。高明は、1881年(明治14年)に東京大学法学部を卒業した後、三菱本社に入社し、1885年(明治18年)までに本社副支配人に昇進し、1886年(明治19年)に三菱財閥総帥岩崎弥太郎の長女春治と結婚[5]。1887年(明治20年)から官界に転じ、外務省や大蔵省に勤務し、公使館書記官・銀行局長・主税局長・駐英公使などを歴任し[6]、1900年(明治33年)には第4次伊藤内閣で外務大臣として入閣[5]。外相辞任後には1902年(明治35年)と、その翌年の選挙で衆議院議員に無所属で当選し[5]。1906年(明治39年)に第1次西園寺内閣に外相として入閣[5]、1909年(明治42年)に駐英特命全権大使に就任し[5]、その際の1911年(明治44年)に日英同盟改定に調印し、その功により8月24日に華族の男爵に列せられた[7]。1913年(大正2年)に第3次桂内閣の外相となり、この時期に桂とともに立憲同志会を結党し、桂の死後同党総裁に就任[5]。1914年(大正3年)に第2次大隈内閣の外相に就任し、第一次世界大戦期の外交を指導、その一環で1915年(大正4年)に対華二十一か条要求を出した[5]。第一次世界大戦の功により1916年(大正5年)7月14日に子爵に陞爵[7]。また同年に立憲同志会を憲政会に改組して総裁に就任[5]。1924年(大正13年)には憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲3派による第2次護憲運動で清浦内閣を倒閣し、後任の首相として加藤内閣(護憲三派内閣)を組閣した。普通選挙法制定・貴族院改革・幣原平和外交・治安維持法制定などの治績をあげた[5]。1926年(大正15年)1月28日の死去に際して、多年の功により伯爵位が与えられた[7]。
高明の死後、長男厚太郎(1895年(明治28年)1月11日生、1959年(昭和34年)2月3日没)が爵位と家督を相続[6]。彼は東明火災保険株式会社の取締役だった[8]。彼の代の昭和時代前期に加藤伯爵家の住居は東京府東京市本郷区駒込上富士前町にあった[8]。その後、その息子昇一郎(1921年(大正10年)7月26日生、1970年(昭和45年)6月10日没)を経て、憲治(1948年(昭和23年)10月26日生)が相続している[6]。