勝屋興久
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生涯
周防国都濃郡須々万[注釈 3]の殿ヶ浴山城を本拠とした国人領主である勝屋氏[注釈 4]に生まれ、陶晴賢の配下となる[12][9]。
弘治元年(1555年)から始まる毛利氏による防長経略に際して、周防国都濃郡須々万の須々万沼城に江良賢宣、山崎興盛・隆次父子、宮川伊豆守、江良主水正、伊香賀左衛門大夫、狩野治部少輔らと共に籠城した[13][14]。興久をはじめとして須々万やその付近に居城を持つ在地領主が多かったが、自らの居城で毛利軍と戦った様子が無く、地の利を得て堅固な須々万沼城に集まって毛利軍に抗戦している[14]。
弘治2年(1556年)4月21日、または、11月27日[注釈 5]、毛利氏家臣の坂元祐が兵を率いて須々万沼城の偵察に来た際に出撃し、須々万沼城から1里離れた白砂川において坂元祐の軍と戦って撃退したが、興久が坂元祐と槍を合わせていたところを坂氏配下の松原氏信の矢を受け、坂元祐によって討ち取られた[注釈 6][2][15]。
興久の墓として、興久が戦死した白砂川の蛇床山の北側中腹の松林の中に小石を積んだ上に2尺余りの自然石を立てた墓が存在したとされ[16]、明治44年(1911年)に編纂された『都濃郡須々万村誌』には同地に興久の墓とされる五輪塔の破片があると記されている[5]。