寛元元年(1243年)、西大寺の忍性によってつくられたとされる。当初は般若寺の北東にあったが、永禄10年(1567年)、東大寺大仏殿の戦いによる戦災で焼失し、寛文年間(1661年から1673年)に現在地(般若寺の南二町)に再建されたとみられる[4]。元禄6年(1693年)に修築された。建物は切妻造、本瓦葺、全長約38メートル・幅約4メートルの東西に長い棟割長屋で、内部は18室に区切られ、さらに東端に仏間が付属する[4]。
江戸時代、この施設は興福寺の支配下にあり、仏間では恵心僧都が描かせたと伝わる阿弥陀如来の仏画を祀っていた[5]。居住者は法名を持ち、下級宗教者として仏に仕える生活を営む中で、奈良の町を勧進して廻ったり、往来の旅人に「ものよ(し)」という縁起の良い言葉を唱えて喜捨を得るなどしていた[5]。奈良での勧進は、薬師寺の支配下にあった同様の施設「西山光明院」と地域を二分して行われていたという[5]。
江戸期のハンセン病患者は、家を出て、参詣者の多い寺社の門前で乞食をするのが一つの典型であったが[5]、一部にはこのような施設で暮らすものもあった。ハンセン病患者が宗教的な生活を送っていた背景には、鎌倉時代以降、ハンセン病への罹患が僧侶や法華経を誹謗した「仏罰」であると説かれて、仏教の布教に利用されていたことに関係する[5]。僧侶が医術も担っていた中世では、医学書においても、「仏罰」からの回復の道は薬餌よりも篤い宗教心を持つことにあるとされていたのである[5]。
北山十八間戸は、勧進の禁止や廃仏毀釈が行われた明治時代初期に廃止された。
第二次世界大戦後の一時期、大阪空襲の被災者や大陸からの引き揚げ者が住んだこともある[6]。