北村謙次郎

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北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日[1] - 1982年6月30日[1])は、日本作家評論家。本名は北村謙二郎。別名に喜多謙。

東京市麹町生まれ[1]。本籍は山形県米沢市。父は逓信省判任官だった。兄は造園家の北村徳太郎

1912年に一家で満洲に移住し、大連の小学校と大連一中に通う。大連一中時代に、同級生と文芸同人誌「アンジェラス」を出す。卒業後は東京に帰り、青山学院高等科國學院大學文学部予科に学ぶが、卒業はしていない。1930年に赤松月船の協力で文芸雑誌「文芸プランニング」を創刊し、宮沢賢治と文通を交わした。太宰治今官一をはじめ井伏鱒二の家に集う若い作家たちとも交友を持つようになり、「青い花」の創刊に参加し、大半のメンバーが引き継がれた「日本浪曼派」同人となって、小説を発表する。1934年に大連の満洲日報社に入社し、1年3ヶ月ほど新聞記者として働く。

1935年に日本に帰国し、『俳諧新辞典』(太陽堂)の項目執筆に取り組む。「日本浪曼派」の同人会にも参加したが、山岸外史檀一雄、太宰治を中心とするグループに馴染むことができなかった。1937年再び満洲に渡り、新京満映に勤務。「大新京日報」文化部長で画家でもあった今井一郎と親しくなり、1938年に初の新聞小説「鶴」を大新京日報に連載。満映では当初宣伝部に所属したが、後に制作部に異動しシナリオを書いた。

新京ではほぼ毎月、満洲文話会の例会に参加する。政府弘報処の木崎竜(仲賢礼)と相談し、満日文化協会の杉村勇造の支援を受けて、長谷川濬逸見猶吉など新京にいた若い文化人たちとともに同人誌『満洲浪漫』を創刊した。その中心人物となって、内地の文学とは異なる独自性を持つ満州文学を目指した。満映を辞職後は、満洲国で唯一の職業作家となった。

戦後1947年に引き揚げ。単身で札幌北海道庁開拓課の役人として勤務したが、腸の病気で東京に戻り、稲城の引揚寮や竹ノ塚を経て保谷に落ち着く。1950年に日本人と白系ロシア人の混血の少女を主人公とした児童小説『ソルベージの歌』を偕成社から出版し(喜多謙名義)、以降は同社より外国文学や古典文学の子供向け再話の著作を多く発表。1956年に引揚文化人に呼びかけて「文話会」を結成。第1回の会合には森繁久彌が四斗樽の酒を持ってきた。機関誌「文話」を創刊するが、戦後日本で満洲の体験を語ることの困難さから、結局は個人誌に落ち着いて1960年に終刊した。その後は山形県出身の歌人斎藤茂吉に関心を強めた。1982年、食道癌により死去。

満洲日日新聞に連載した長篇小説『春聯』は、建国当時の蘇炳文の反乱に遭遇した国境警備隊員の冒険物語を中心にした作品で、この序文で川端康成は「建国十年間の満州文学のおそらく最高の収穫が北村君の『春聯』であったことも、決して偶然ではない」と評している。

著書

  • 春聯 新潮社 1942年
  • 帰心 短篇集 国民画報社 1943
  • ソルベージの歌 偕成社 1950(喜多謙名義)
  • 北辺慕情記 長篇随筆 大学書房 1960
  • あららぎ物語 詩歌に生きた人びと 冬樹社 1966
  • 長崎の茂吉 あららぎ物語 皆美社 1972

再話

脚注

参考

関連項目

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