北門義塾
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北門社新塾
柳田は学校用地として、当時三井家が呉服代の抵当流れで所有していた牛込早稲田の元高松藩下屋敷を、3千6百両で東京在住者(稲田小四郎)の名義を借りて財産管理人の資格で買い取り(当初三井家はその使用目的から無償譲渡を申し出たが柳田は三井家に預けていた米代残金で相殺)、屋敷をそのまま流用した。塾主には、山東一郎(前箱館裁判所内国事務局権判事:のち山東直砥に改名)を箱館から招いて学校管理を委託、校名を北門社新塾とした。[1]
翌明治3年(1870年)、山東は、西洋式病院新設を計画していた旧知の元御典医・松本良順(のち松本順)に敷地内への建設を斡旋、同年10月に蘭疇医院及び医学塾が開設され、以後、松本は北門社の共同管理者となった。[2]
新塾は英学を専門とし、初代英学教師(塾長)は尺振八、続いて林董(松本の実弟)、安藤太郞が継いだ[2]。明治4年(1871年)1月に入塾した福島安正の回想によれば[3]、当時の塾主は山東、塾長は横尾東作、塾監白川有源で、横尾・白川が仙台に創設された英学校辛未館に転出後は、投票により塾生代表4名が塾務を代行、のちドイツ人オット・シセル(Otto Sichel;オットー・ズィッヒェル[4])が塾長として招かれたが、山東と不和を生じ、同年11月にシセルは福島及び遠藤敬止らとともに退塾、松本の助力で英学校蘭疇社を創設したという。
北門社郷塾
閉塾後(育英義塾・大隈重信別邸)
明治5年(1872年)9月、3年間の予定年限に達し、当初予算も超過したため、東京の新塾は山東・松本に自立経営が託されたが上記内紛により閉塾、函館の郷塾もその役割を終え、敷地建物は官に買上げられ閉塾した(前年10月に官立函館学校が松陰町に開校[5])。[1]
なお、山東直砥は同年中に神奈川県七等出仕、さらに権参事に就任した。一方の松本順はすでに明治4年3月に大学出仕兼兵部省御用掛となり、蘭疇社のオット・シセルも明治5年11月から軍医寮学舎の英独語教師に雇われた[6]。
その後、柳田は育英義塾(校主は有栖川宮熾仁親王:皇族華族他が経営)より旧北門社施設の貸与を要請されると、自身も経営陣に加わり、新暦1873年(明治6年)6月に育英義塾が早稲田に移転開校した[1]。しかし、経営難により翌年2月には閉校解散したという[7]。
北門社新塾の敷地は1874年(明治7年)に大隈重信別邸(のち本邸、大隈庭園が現存)となり、その後、隣接地に東京専門学校(現・早稲田大学)が創立された。[8]
出版物
- 新塾月誌(明治2年)第2集で終刊
- 俳諧新聞誌(明治2年)第3集で終刊
- 英国祝砲条例(チューソン著・福地源一郎訳、明治2年)
- 英国商法(チューソン編・福地源一郞訳、明治3年)
- 増補地学階梯(チャンブル Chamber 著、明治3年)※英文教科書
- 格物入門和解 水学之部(上下巻、丁韙良著・柳河春蔭訳 明治3年)
- 格物入門和解 気学之部(上中下巻、丁韙良著・安田次郎吉訳・明治3年)
- 格物入門和解 火学之部(上下巻、丁韙良著・吉田賢輔訳、明治3年)
- 格物入門和解 電学之部(上中下巻、丁韙良著・奥村精一訳、明治3年)
- 格物入門和解 力学之部(上下巻、丁韙良著・佐藤劉二訳、明治3年)
- 格物入門和解 化学之部(全4巻、丁韙良著・宇田川準一訳、明治7年)
- 格物入門和解 算学之部(全4巻、丁韙良著・塚原宗策訳、明治7年)
- First reading book for the use of schools(明治4年)
- 窮北日誌(岡本文平著、上下巻、明治4年)
- 北門急務(岡本文平著、上下巻、明治4年)