吉田賢輔
日本の洋学者
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経歴
武蔵国江戸(江戸下谷向原柳御徒町)に幕府徒士・吉田定八郎の子として生まれる。
田辺石庵について程朱の学を修めた後、古賀茶渓に師事。また、添川廉斎に漢学を学んだ。万延元年(1860年)12月に蕃書調所筆記方出仕となり取締を兼任。蘭英書の翻訳をすることとなる。海外の新聞を口訳するのを筆記方が筆記したのちに出版したが、これが日本における新聞の始まりといわれている。
文久2年(1862年)、外国奉行支配書記、慶応元年同支配調役並、同3年儒者勤方に任ぜられた。ここで、幕府外国奉行支配調役同僚の福澤諭吉と懇意になり、『西洋旅案内』などの著書に助力。福沢の弟子・小幡甚三郎の訳書『西洋学校規範』の校正も務める。「窮理」の別名となった「物理」という名を始めて冠したとされる『物理訓蒙』など多くの啓蒙書を執筆。
明治維新後は福澤諭吉を助け、創成期の慶應義塾の漢学教授に就任したが、後に英学を教えた[1]。慶応4年(1868年)に『慶應義塾』を立ち上げるにあたって、福沢の盟友として指導的な役割を果たした人物である[2]。この頃の慶應義塾は福沢、小幡篤次郎、吉田の3名が塾長兼教授の最も高い地位にあったとされ、上杉麻布邸で平田東助・内村良蔵・曽根俊虎や米沢藩の甘糟継成を指導。明治2年(1872年)5月頃より慶應義塾の英学教授を兼ねて、米沢藩医の子弟が慶應義塾に学びに来た際、渡辺洪基や足立寛と共に、樫村清徳、高橋秀松、海瀬敏、柏原求越などを教えている[3]。
その後、尺振八、須藤時一郎らと共立学舎を創立し英学指導を行う。明治政府では紙幣頭・得能良介の発案で紙幣史編纂主任として大蔵省紙幣寮に入り、『大日本貨幣史』を編纂。文部省で『日本教育史』、『初学読本』の編修に参画。後に気象学に関する翻訳もした。
1893年(明治26年)10月19日死去。行年56歳。東京青山の教学院に埋葬されている。