千秋家
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前史
天照国照彦火明命33世裔稻置見の後裔と伝わる尾張国造家の家系で熱田大宮司家[3]。藤原季範が継いで以降は藤原南家の家系となって三流に分かれ、そのうち範信の家系が千秋家となった[2]。
中世
源頼朝が関東に政権を樹立させると(鎌倉幕府)、頼朝の生母である由良御前が一族の女性であったことから、幕府の有力御家人となった[4]。千秋家は頼朝の在世中に丹生郡北部に地頭職を得たと考えられ、以後糸生郷や越知山の地頭に在った[5]。また同郡宇治江村の地頭にも就任しており[6]、千秋兼範は嘉元4年(1306年)8月、宇治江村源五郎名の田地2段を両親の追善供養のために大谷寺に寄進した[4]。
戦国時代には織田氏に従った。武家として戦い戦死者が相次いだため、断絶を懸念した織田信長が所領を与え神事に専念するようにした。
近代

明治維新を迎え、季福は明治5年(1872年)5月に華族に列せられた[7]が、社家の世襲制が廃止されたためか明治9年(1876年)4月17日に自殺をしてしまう[8]。同年6月16日に長男季美が数え3歳で家督を継いだが、翌明治10年(1877年)4月23日、一年も経たずに亡くなった[7]。5月30日、弟の季隆が兄と同じく数え3歳で家督を継承した[7]。明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行されて華族が五爵制になると、翌8日、季隆は男爵に叙された[7][9]。
季隆は、公的には早稲田大学、学習院の教授を務め、貴族院の男爵議員にも7回当選して務めるなど精力的に活動した[3]。しかし私的には、儲けた季輝・季正の二男子にどちらも先立たれ、昭和16年(1941年)5月12日、季隆自身も嗣子なく亡くなった[7]。そこで、北河原公海の次男・公孝が養子となり[10]、昭和17年(1942年)4月15日、季隆の跡を襲爵した[7][11]。公孝は同年5月7日、北河原家の通字である「公」を千秋家の通字である「季」に改め、諱を「季孝」とした[12]。季孝は、東山天皇男系七世孫であり、血統で見れば千秋家は皇室の血を継ぐ家(皇別)となった[注釈 2]。
昭和前期には、千秋男爵家の住居は東京市渋谷区原宿にあった[3]。
現代
季孝は奈良華族の小松家出身の豊子と結婚し[7][13]、長女早苗、長男季頼を儲けた[7]。季頼は昭和48年(1973年)に熱田神宮に奉職し、平成26年(2014年)に権宮司に就任、平成30年(2018年)にはついに宮司に至った[+ 1]。季福以来およそ150年ぶりに千秋家が熱田(大)宮司に返り咲いたのである[注釈 3]。