南京写真館
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| 南京写真館 | |
|---|---|
| タイトル表記 | |
| 繁体字 | 南京照相館 |
| 簡体字 | 南京照相馆 |
| 英題 | Dead To Rights |
| 各種情報 | |
| 監督 | 申奧 |
| 脚本 |
傅若清 申奧 許淥洋 張珂 |
| 出演者 |
劉昊然 王伝君 高葉 王驍 |
| 音楽 | 彭飛 |
| 撮影 | 曹郁 |
| 配給 |
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| 公開 |
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| 上映時間 | 137分 |
| 製作国 |
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| 言語 |
中国語 日本語 英語 |
『南京写真館』[2](なんきんしゃしんかん、原題:南京照相館[1]、英題:Dead To Rights[1])は、2025年の中国映画。申奧が監督を務め、劉昊然、王伝君、高葉、王驍などが出演している。映画は南京事件を背景に、戦乱の中で民間人が写真館に逃げ込んで避難する様子を描いている[3]。
2026年1月現在、日本では未公開だが、2025年9月17日に東京の中国大使館で上映会が行われ、中日両国の各界関係者約150人が鑑賞した[4]。
1937年、中華民国の首都南京が日本軍に占領されたとき、南京大虐殺の最中に郵便配達員の蘇柳昌は生き延びるため写真館の見習いを装う。日本軍の通訳である王広海の勧めで、蘇柳昌は伊藤という日本軍の写真技師が撮影した写真を現像させられ、「親善写真」と称した写真撮影に協力させられたこともあった。その間、蘇柳昌は写真館に国民革命軍や民間人をかくまう。蘇柳昌が南京からの脱出を助けた一人は、虐殺の証拠が残されたフィルムを世に公表した。当時、日本陸軍省の「新聞掲載事項許否判定要領」では「捕虜虐待の嫌疑を抱かせる」写真を掲載不許可と定めていた[5][6]。
伊藤は蘇柳昌に通行証を2枚与え、一行は金承宗の妻子を先に逃がそうとする。しかし城門で待ち伏せに遭い、2人は殺害される——これは伊藤の仕掛けた罠であった。日本軍が宣伝用の「親善写真」を撮影する際には、公開の場で民間人が殺害された。宋存義は弟の死を写した写真を見て激昂し、協力に来た日本軍カメラマン・池田を殺す。暴行が激化する中、王広海は林毓秀を守ろうとして射殺され、金承宗は日本兵を倒し、蘇柳昌と共に伊藤を制圧する。
一同は王広海が妻子のために用意していた通行証を発見し、金承宗と林毓秀に赤子を託して脱出させることを決意する。彼らは事前に日本軍の残虐行為を記録したネガを衣服に縫い込み、伊藤の保管する証拠には古いネガをすり替えておいた。城門で金承宗は林毓秀を逃がすため命を落とすが、林毓秀は脱出に成功し、真実のネガを国際記者に渡す。
南京大虐殺を証明する写真は世界中に広まり、伊藤は絶望して自殺する。1947年、これらの写真は国防部戦犯裁判軍事法廷において、谷寿夫ら戦犯を告発する重要な証拠となった。
出演者
| 出演者 | 役名 | 備考 |
|---|---|---|
| 劉昊然 | 蘇柳昌 | 中華郵政南京郵便局一区二組1213号配達員。日本軍侵攻時、自身を吉祥写真館の徒弟「阿泰」と偽り、写真館に避難。 |
| 王驍 | 金承宗 | 吉祥写真館の店主。 |
| 高葉 | 林毓秀 | 映画女優。後に写真館に避難し、一時蘇柳昌と偽装夫婦を演じた。 |
| 王真児 | 趙宜芳 | 金承宗の妻。 |
| 楊恩又 | 金婉義 | 金承宗の長女。 |
| 周游 | 宋存義 | 南京戦中に徴用された警察官。蘇柳昌が写真を現像中、弟の宋存礼が日本軍に虐殺されている場面を発見する。 |
| 王伝君 | 王広海 | 日本軍の通訳。 |
| 原島大地 | 伊藤秀夫 | 日本軍の写真技師。祖父は日清戦争に参加。 |
| 厳東南 | 井上裕司 | — |
| 東伸治 | 黒島 | 日本軍少佐。伊藤秀夫の上司。 |
| 高橋伸彰 | 池田永友 | 途中で南京に派遣され、写真現像を担当。 |
| 彭広 | 田中軍吉 | 日本軍第6師団大尉・中隊長。 |
| 木地雅茂 | 野田毅 | 『百人斬り競争』を行った少尉。 |
| 林亮介 | 向井敏明 | |
| 木村政人 | 谷寿夫 | 日本軍第6師団中将・師団長。 |
| 姚未平 | 松井石根 | 中支那方面軍司令官。 |
| 銭桂東 | 朝香宮鳩彦王 | 上海派遣軍司令官。 |
| 趙樹喜 | 長谷川清 | 支那方面艦隊司令長官。 |
| 楊皓宇 | 裁判官 | — |
| Apryl Mei Reagan | ミニー・ヴォートリン | 南京安全区で中国人を保護したアメリカ人宣教師。 |
映画のモデル
本作に登場する照相館のモデルは、現在の南京・估衣廊付近にあった「金陵照相館」である。1938年初め、同館の見習いであった当時15歳の羅瑾は、日本兵が焼付を依頼してきたネガフィルムの中に、日本兵の暴行を記録した写真が含まれていることを発見した[7]。羅瑾はそれらを一部余計に焼増して密かに写真帳にまとめた。その後、日本の傀儡政権である汪精衛国民政府の時期に羅瑾は毗盧寺に駐留していた汪精衛国民政府の警衛所通信隊の訓練生となり、集中訓練期間中に写真帳を持込み所持していたが、写真が発覚すれば死刑にされる恐れさえあることを知り、写真帳を毗盧寺の便所近くの草叢に捨てた(便所のレンガの裏に隠したとする話もある[8])。1941年のことである。同じく毗盧寺で訓練に参加していた呉連凱がこれを見つけ、密かに仏像の下に隠し、その後持出し保管した[9][10]。
日本の降伏後の1946年に、「呉旋」と改名していた呉連凱は、南京市臨時参議会が南京軍事法廷のために証拠を収集していることを知り、長年隠していた証拠写真帖を提出した。この写真帖は、南京大虐殺の主犯の一人である谷寿夫を裁く際の「京字第一号証拠」となり、その後中国第二歴史档案館に収蔵された[11]。1995年6月、羅瑾と呉旋は南京で再会を果たした[12]。
1947年2月6日、谷寿夫の裁判は中国政府による南京大虐殺に関する最初の公開審理であり、国内外の広い注目を集めた。公判は三日間にわたり、80名を超える証人が出廷して谷寿夫ら部隊の残虐行為を証言した。その中には3名の外国人証人も含まれていた。谷寿夫は当初南京大虐殺の罪を否認したものの、これら多数の証言と物証により、最終的には部隊に対し民間人や捕虜の虐殺を容認・教唆した犯罪事実が認定された[13]。