百人斬り競争

1937年の南京戦において野田毅少尉と向井敏明少尉が行った競争 From Wikipedia, the free encyclopedia

百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、1937年11月から12月にかけての南京戦において、上海派遣軍 第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官野田毅少尉と同大隊砲兵小隊長向井敏明少尉が敵兵百人斬りをどちらが先に達成するかを、競争していると報道された話[1]南京軍事法廷では、報道記事が証拠とされ両少尉は死刑の判決を受け、雨花台で処刑された[1]

百人斬り競争を報じる1937年12月13日の東京日日新聞。写真右は野田毅少尉 、左は向井敏明少尉(常州にて佐藤振壽撮影)

戦中は前線勇士の武勇談として賞賛されたが、戦後は南京事件を象徴するものとして[2]非難された[3]。戦後、本多勝一の『中国の旅』で紹介され、これに対して鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし』、山本七平が『私の中の日本軍』で、虚構性を論じたことにより一般に知られるようになった[4]。山本に対して洞富雄が反論を行った[4]

2003年4月28日、向井敏明の長女、二女、野田毅の妹の遺族三人が原告となって、毎日新聞朝日新聞と執筆者の本多勝一、据えもの斬り競争だったと主張する本多の論稿を含む『南京大虐殺否定論13のウソ』を刊行した柏書房を被告とし、「信憑性に乏しい話をあたかも歴史的事実とする報道、出版が今も続き名誉を傷付けられた」として、東京地裁へ提訴し、出版差し止め、謝罪広告、損害賠償を請求した[5]。2005年8月23日、東京地方裁判所の判決 (土肥章大裁判長)で原告らの請求が棄却され[6][7][注釈 1]、2006年5月24日、控訴審・東京高等裁判所の判決 (石川善則裁判長) で控訴が棄却され[10][注釈 2]、2006年12月22日、上告審・最高裁判所 (今井功裁判長) で上告が棄却された。

裁判の過程で、野田が日本に戻った際の講演を聞いたという者の回想記、元部下の手記等が提出され、「百人斬り競争」の実態が戦闘行為等ではなく寧ろ捕えた捕虜や民間人などの据え物斬りであった可能性が浮び上って来ている。判決では、『当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず』『本件日日記事は、両少尉が浅海ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載された』『両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が、何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難』と認定され、地裁から一貫して原告敗訴の形のまま確定した[12]

当時の報道

戦時中に、以下の記事が報道された。

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番号媒体日付主な内容
1東京日日新聞 昭和12年11月30日向井少尉と野田少尉が敵兵をどちらが早く百人斬りするか競争している。無錫から初めて現在65対25(常州でのインタビュー記事)(常州にて29日、浅海、光本、安田)
2東京日日新聞 昭和12年12月4日常州出発から丹陽までに数字を更新して86対65。向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右手首に軽傷(丹陽にて3日浅海、光本)
3東京日日新聞 昭和12年12月6日「句容入城にも両少尉が最前線に立って奮戦」、89対78(句容にて5日浅海、光本)
4東京日日新聞 昭和12年12月13日紫金山攻略戦の際に106対105、野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」10日正午対面しドロンゲームとして新たに150人斬り競争を始めた。11日昼中山陵を眼下に見下す(紫金山麓にて12日浅海、鈴木)-向井、野田の両名が並んでともに撮られた記念写真が紙面に載る。
5鹿児島毎日新聞 昭和12年12月16日東京日日新聞の後追い記事
6鹿児島毎日新聞 昭和12年12月18日東京日日新聞の後追い記事
7大阪毎日新聞 昭和13年1月25日野田少尉が中村硯郎あてに百人斬りを自慢する手紙が届いた。その中で、南京入場までに105人斬ったがその後253人を斬ったこと、『百人斬りの歌』が作られていることが紹介されている。
8鹿児島朝日新聞 昭和13年3月20日野田少尉が鹿児島に帰還。374人を斬ったと語った。
9鹿児島新聞 昭和13年3月21日野田少尉が374人を斬ったと語った。地元の児童、生徒に百人斬りの競争談をなした。
10鹿児島朝日新聞 昭和13年3月22日野田少尉の父伊勢熊氏が息子の戦果(374人斬り)を紹介。(野田少尉、両親、五女とよ子氏の写真が掲載)
11鹿児島新聞 昭和13年3月26日野田少尉が神刀館で百人斬りの講演を行った。
12東京日日新聞 昭和14年5月19日野田中尉は戦死したが(誤報。軍命で秘密任務に就いたため一時的に戦死ということにされたという説がある。野田は、南機関の参謀長となり、ビルマ侵攻作戦に関り、新設のビルマ国軍の指導官を務めている[13]。)、向井少尉が野田少尉との約束の500人斬りを果すため、奮闘中。今までに305人斬った。
13新世界朝日新聞 昭和14年6月12日同年5月19日の東京日日新聞と同じ記者によるほぼ同内容の記事。向井中尉は約束の500人斬りを果すため愛刀が折れるまで頑張るという[注釈 3]
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反響

この競争は地元で英雄譚として、大いに称賛された。鹿児島市草牟田尋常小学校の副教材では百人斬り競争をとりあげ、「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」と紹介された[15][16]。大日本雄弁会講談社の高木義賢著『南京城総攻撃(支那事変少年軍談)』はこのことを「報国百人斬競争」と呼んでいる[17]

野田は、地元の小学校、中学校で、多くの公演を行い、百人斬り競争について話をした[18][19][20][21][22]

南京軍事法廷

1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞やその転載翻訳を資料とする『外人目睹中之日軍暴行』[23]を基に南京軍事法廷において「我国人」殺害の容疑でそれぞれ起訴された。12月5日向井の法廷弁論を終えた後、二人の事件は合同裁判に付することとなり、さらに其の後、別の三百人斬りを理由に既に起訴され同月12日にも公判が行われていた田中軍吉陸軍少佐[注釈 4](事件当時、第六師団第四五連隊中隊長、陸軍大尉)と合同公判を行うこととなった。18日に行われた公判ではより多くの人が聞けるよう法廷外にも拡声器を設けられ、石美瑜裁判長によって当日18日には「戦争中捕虜及び非戦闘員に共同で連続して虐殺を行った」[25]として全員死刑判決を受けた。3名は中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。(詳細は後述百人斬り競争#南京軍事法廷の詳細)

論争

本多 VS ベンダサン・山本七平

1971年本多勝一は、朝日新聞に連載していたルポルタージュ『中国の旅』(のちに単行本化)で、この事件を取り上げた。このとき、本多は、両少尉をA少尉、B少尉と匿名で表現した。これに対して、ユダヤ人と称していたイザヤ・ベンダサン山本七平)は、「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話」としながらも虐殺に遭遇した中国の人々の中から生れ出た伝説だと主張し、「百人斬り競争は存在しない」として「なぜ両少尉を匿名にしたのか。実名を明らかにしていただきたい」「この二人は存在しないから実名が記せないのでしょう。」と批判した[26]。これに対して、本多は、両少尉の実名入りの当時の東京日日新聞(現在の毎日新聞)の記事や鈴木二郎記者、志々目彰の手稿(後述)を挙げ、「これでも伝説と主張しますか」と反論した[27]

また、ベンダサンは、その頃あった鈴木二郎の南京事件に関する話から、向井・野田は東京裁判に告発されたが裁判の結果として無罪になったのだと話を飛躍させ、さらにそうなったのは確実なアリバイがあったのだろうと主張を膨らませるが、洞富雄から、連合国軍による東京裁判はA級戦犯を裁くもので、向井・野田らBC級は東京裁判で扱われるはずがなく、中国での行為であった為に米軍の横浜裁判でもなく中国軍による南京国防部裁判で裁かれたのであることを指摘されている[28]

ベンダサンと本多は論争となり、その過程で、本多は、ベンダサンの原文の訳文とされる日本語を不審視、英語の原文を示すよう要求したが、山本側は応じず代わりに文末の「原文は英語」という注記をしなくなる[29]。ここから『日本人とユダヤ人』の翻訳者と名乗っていた山本七平が、世間にも広くベンダサン本人とみられるようになったようである。この後、論争は、本多と山本の間で続けられることになる[29]。なお、山本七平は、宗教家の佐伯真光とも別に論争となる[29]。こちらの論争は、その過程で出て来た英単語の意味・用法を巡っても行われるが、山本は、”not ・・・ at all”(全く・・・でない)という基本的な英文法知識を知らず、通常の"not ・・・ all"のような部分否定と思い込んでいたこと等を露呈する[29]。また、判定のために指名された英語通訳者の松本道弘からは、山本は様々な点でその問題点を指摘され、誤りと判定されている[29]

山本は、自身に軍隊経験があるとして、彼の知る軍隊社会の常識ではこうだという論法で、続いて論争に参加してきた鈴木明は南京軍事法廷の記録や向井少尉を知る者らを取材することで、百人斬りの虚偽を主張した[30]。 鈴木の雑誌に分載された主張の一部は大宅賞を受賞、これらをまとめて『南京大虐殺のまぼろし』が出版される[31]。山本は殺陣師の談話や軍刀修理に当たった成瀬関次の著書『戦う日本刀』、軍刀の強度試験に立ち会った材料工学のO工学博士からの手紙[32]、自身の体験等から、「日本刀で本当に斬れるのはいいとこ三人」(殺陣師)等を引用して「日本刀にはバッタバッタと百人斬りができるものでない」と結論づける[33]

秦郁彦は、その山本に対し、「1.無抵抗の捕虜を据えもの斬りすること[注釈 5]を想定外としていること」「2.成瀬著から都合のよい部分だけを利用し、都合の悪い事例を無視している[注釈 6][注釈 7]こと」から『トリックないしミスリーディングといえよう』と評した[35]洞富雄も、同じ観点から同様に山本七平と鈴木明を批判している[注釈 8]。(山本の「据えもの斬りを想定外」について[注釈 9]。また「都合の悪い事例」すなわちは日本刀の優秀性を謳う個所はによるとこの4箇所[38][39][40][41][42]。)なお、秦は、この山本の日本刀の限界論がその後の論争で百人斬りの全面否定論者の有力な論拠になったとしている[13]

野田少尉が手紙で中村硯郎に百人斬りを告白し、新聞報道の内容にいささかの否定的見解も示していない(「当時の報道」の8番の記事)[43]記事や、向井中尉自らが浅海、光本、鈴木記者とは別の特派員に、それも二年後において話した「305人斬り」の記事が2004年に再発見されたことで、「百人斬り競争は浅海記者らの一方的な創作記事だった」という鈴木明、山本七平の説は否定されることになる [44]

山本七平・鈴木明 VS 鈴木二郎・浅海一男・洞富雄

東京日日新聞元記者の鈴木二郎、浅海一男は、日中戦争時、向井・野田の百人斬り競争を報道していた。戦後、鈴木二郎、浅海はそれぞれ、市ヶ谷で何回かにわたって国際検事局パーキンソン検事の事情聴取に応じる。このとき、中国陸軍の軍法務官か検察将校らしき人物も立ち会っていた[45]。向井・野田の「逃げる者は斬らない。立ち向かう者だけを斬る」という言葉を信じていた鈴木二郎、浅海は、向井・野田の百人斬りを「虐殺ではない」と擁護した。しかし、後に、例えば鈴木二郎は、野田が騙して投降させた中国兵らを斬ったと語っていたことを聞いて、裏切られたという思いを受けている[46]

鈴木二郎

山本七平、鈴木明から、日中戦争時の百人斬り競争の報道と、雑誌『丸』の依頼で寄稿、1971年11月号に載った南京大虐殺に関する文章が、デッチ上げ、フィクションと批判され、これに対し、彼らこそ勝手な推理、浅薄な証言に基づいており、自分は実際に見聞きしたことを書いたもの、百人斬りは事実は事実として述べねばならずありのまま語ったものだと反論した[46]

鈴木二郎は、人から知らされるまでベンダサンと本多の論争も知らずにいたという[46]。鈴木二郎の反論時には、既に、山本・鈴木明の主張した鈴木二郎の文章への疑問点に対し、洞富雄が反論を行っていて、鈴木二郎は、自身らの報道の真実性を明らかにしたものとして、洞に謝意を表している[46]。それによれば、12月12日に南京城に入城した等の鈴木二郎自身の取材行動については、洞の指摘の通り、記憶違いがあったとしている[46]

浅海一男

山本七平、鈴木明の批判に対し、加害者側の利益関係者の証言ばかりを取上げて被害者側の声を扱っていない点を指摘、浅海自身は当時の体験をあらためて語り、それを正しく報道したものであることを述べた[45]。その際、合わせて、当時の日本軍がいかに荒み、実際にはどれほど残虐な行為を働いていたかを明かにした[45]。そもそも山本・鈴木明が本当に向井・野田が無実と信じるのなら、南京裁判で有罪を出したのは国民党軍であるのだから、なぜ台湾に抗議しないのかと、浅海は両者に反論している[45]

また、浅海は、戦後、パーキンソン検事の事情聴取を間歇的に数日に亘って受けたこと、東京裁判に証人として出席したが、宣誓を終わるや判事の一人が伝聞証拠として証言や供述調書を採用しないことを主張して、裁判長がこれを認め、自身は退廷させられたことを述べている[45]。ベンダサンらは、同様な鈴木二郎の手記内容から、これを向井・野田が東京裁判で無罪になった、アリバイが証明されたからだろう等と主張していた[47]が、洞富雄は、そもそも向井・野田は全くのBC級戦犯容疑者でA級戦犯を裁くはずの東京裁判の起訴対象にならず、実際に起訴もされていないことを指摘している[48][49]。当初、洞は、浅海記者は書類の不備かなにかで退廷になったという鈴木二郎の手記内容について、東京裁判の裁判記録で自分がそのような記載内容に気づかなかったこと、朝日新聞社編纂の東京裁判関係資料の索引目録に浅海の名がないこと、百人斬り競争に関する新聞記事が検察官側不提出資料になっていること等を挙げて、これは何か他のこととの取違いではないかとしていた[48]。しかし、その後、浅海の書いた手稿から、浅海が証人として東京裁判に出廷したこと、しかし伝聞証拠として不採用とされたことを知るに至っている[49]。実際には、東京裁判では、松井石根元方面軍司令官が日中戦争で南京事件等の戦争犯罪を止めさせられなかった監督責任を問われて起訴されており、向井・野田ではなく松井の責任を追及するためにいったん提出されたものの証拠採用されなかった為に、速記録は裁判資料から外され、新聞報道類の証拠資料が不提出書証に分類されたのであれば、何ら不思議はない。

なお、浅海は一律に伝聞証拠となるかのように勘違いしているが、松井元司令官が百人斬り・南京事件等の残虐行為を放置した監督責任を被告人として問われている東京裁判では、向井・野田の話を聞いただけの浅海・鈴木二郎をいくら反対尋問しても、実際に向井・野田が上官の黙認ないし公認で百人斬りを行っていたのか、裁判官の心証形成に資さず、浅海・鈴木二郎の証言・調書は松井に対する伝聞証拠にしかならないが、向井・野田が被告人の南京裁判で、向井・野田が、百人斬りは記者らの創作、浅海・鈴木二郎のヤラセによるデッチ上げ等と主張するのであれば、浅海・鈴木二郎の証言や向井・野田の反駁は、反対尋問も可能な、まさに当事者証言となる。この資料だと思われる東京裁判の「検証一九二〇」は、百人斬りについて報道する東京日日新聞の2つの記事と、その記載内容が確かに報道された記事内容と同一であることを保障する浅海・鈴木の宣誓口供書により構成されている[50]。内容は、向井・野田によって百人斬りが行われたと直截に証言するものでもなければ、向井・野田が百人斬りをしたと「実際に」語ったと保証するものでもない。A級戦犯容疑で東京裁判にかけられた松井石根は、その口供書で南京事件について「終戦後東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知した」と主張していた(法廷証第3、498号)[51][52]。戦時中、国内の新聞は日遅れで戦地の日本軍に送付されており、したがって、検察官は、南京事件そのものではないにせよ日本軍のこのような残虐行為を、松井は新聞報道等で知っていたはずだとする証拠として提出するつもりであったとみられる。

向井・野田が東京裁判で無罪になったというベンダサンの設定は、近現代史が専門と標榜する歴史研究家の秦郁彦にも影響を与え、同じBC級戦犯に問われた谷寿夫にくらべ向井・野田の中国への引渡しが遅れたのは「一事不再理」の原則からGHQ法務局は両名の引渡しを渋ったのか等と、2005年に至っても専門誌に寄稿している[53](むろん、A級裁判を扱う東京裁判では起訴の対象ともされず、「一事不再理」に抵触することはない。)。

「据え物斬り」説

本多勝一による「据えもの百人斬り」説

本多勝一は、適示されている事実からの推論の形式により論者の個人的な位置見解としての体裁を採りつつ、両少尉の行為がいわゆる「据えもの斬り」(通常、軍刀等を用いて座している者等を斬ることを意味する)であり、捕虜虐殺競争を行ったものであること、及び、その結果、両少尉が南京軍事裁判で死刑に処せられたことを事実として摘示した。[54]

主張の根拠

本多勝一らは、「百人斬り競争」の事実は次のような各種資料に裏付けられている、と主張した。[55]

  1.  当時の新聞等の資料(東京日日新聞の記事)
  2.  東京日日新聞の記事以外にも、次のような報道がされている。
    1. 野田少尉の中村硯郎あての手紙が紹介されている。その中で、「百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来た」こと、南京入城までに「105斬った」がその後「253人叩き斬った」として「百人斬り競争」の事実を自認している。
    2. 野田少尉が帰国した際の記事では「374人を斬った」として野田少尉が「百人斬り競争」について詳細に語っている。
    3. 向井少尉は、「今度は千人切りである」「野田少尉と別れてから約束の五百人斬りを果たすため、一生懸命やっている」「今までに305人斬りました」と述べている。
  3. 野田少尉の父、野田伊勢熊は昭和42年6月の段階で野田少尉が「南京入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし」たことを認めている[56]
  4. 野田少尉と同じ中隊に所属していた望月五三郎は手記『私の支那事変(私家版)』(P42-45)に、野田少尉が非武装の一般農民を斬ったこと、支那人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしたこと、を記している。
  5. 志々目彰は、「中国」1971年12月号に投稿した論稿の中で、野田少尉の講演内容を「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ。実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて、片っぱしから斬る。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ。」と紹介している。そして、志々目彰の同級生であった辛島勝一は志々目にあてた手紙の中に、野田が捕虜を斬った話をしていた旨を記している。
  6. 2少尉が作成した遺書の中でも、2少尉が「百人斬り競争」について話したことにより新聞記事になった、と認めている
  7. 浅海、鈴木両記者及び佐藤振壽カメラマンの論稿では、記者が二人の少尉から聞いた話を記事にした、と一致して述べられている。
  8. 南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だったことを示す資料は多数存在している。
  9. 以上に示した各資料は、野田らが農民等を殺害した現場を目撃した資料、野田少尉が「百人斬り競争」をなし、捕虜を殺害した旨話した資料、両少尉が取材記者に対して自ら「百人斬り競争」について語っていた資料であり、更にはこれらの資料を裏付ける資料の存在などお互いの資料が支えあい、補い合って「百人斬り競争」の事実と捕虜の殺害の事実を明らかにしているのである。

秦郁彦による「据え物斬り」説

秦郁彦は「百人斬りについて、私は通説とはちょっと違う見解なんですよ。これは捕虜の据えもの斬りだったのではないかと推定しています。もちろん百人はオーバーでしょうが、百人斬りをやったとされる二人の少尉のうち、一人は有名になってから母校の小学校で講演して、生徒たちに、あれは捕虜を斬ったんだと話しているんです。それを聞いた人が何人かいるんですよ。捕虜の据えもの斬りなら可能なんです。」と述べた[57]

秦郁彦は、1991年夏、志々目彰の証言の裏付けをとるために鹿児島師範学校付属小学校の同級生名簿を頼りに問い合わせ、「野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だった」という辛島勝一の証言、「実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたという北之園陽徳の証言、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶しており、あとで剣道教師から「とんでもない所行だ」と戒められたという日高誠の証言などを紹介し、「どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと『告白』したのは事実らしい。」と述べた[58]

望月五三郎の回想録

野田少尉の部下であったという望月五三郎は、私家版の回想録『私の支那事変』で野田少尉の行為を下記のように描写している。

このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

朝日新聞名誉棄損裁判にて、望月の回想録を証拠として提出し[59]、裁判所は反証がないことを以って回想記を真実の証拠の1つにしている[60]

主な否定説

両少尉と同じ大隊(歩兵9連隊第3大隊)の大野少尉(第3大隊第9中隊第1小隊)陣中日誌に拠り東中野修道が検証

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大野少尉陣中日誌[61]と解説
日付行跡解説
12月2日 13:45丹陽停車場(城外)を占領、更に追撃、新豊駅裏高地にて一晩中交戦す丹陽に入らず、22:00丹陽東門を占領したのは20連隊第4中隊[62]
12月3日 7:00大隊は出撃す、敵影なし、村落を占領、一夜を明かす朝第4中隊は大隊と共に丹陽城内を掃蕩[63]
12月5日 白許崗、殷巷、大隊は買岡里に進出、ここにて一泊す句容に向かわず、北西に進み丘陵地帯へ[64]、5日夜(夕?)20連隊第1中隊が句容を占領[65]
12月11日 霊谷寺より(下って)山腹に。迫撃砲射撃を盛に受く、一晩中壕中にて射撃猛烈なり第3大隊は中山陵よりも低い地点にいた、上から射撃され苦戦、敗残兵は出ていない[66][67]
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  1. 当時、向井少尉は、丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であったという証言をおこなった[68]鈴木明宛に衛生兵T氏の手紙があり、「向井少尉の負傷は事実で」負傷後の行動も具体的に書かれている[69]。名誉棄損訴訟の判決は、富山大隊長の受傷証明書は事後に提出された、犬飼総一郎手記は具体性に欠けるとし、証拠能力を否定して負傷を認めない。がT氏の手紙には言及していない[70]
  2. 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はほぼない[68]
  3. 向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった[71]。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う2人が相談して「何らかの戦果を競争する」ことは不自然である。また、向井少尉には軍刀での戦闘経験はない[68]。2少尉と浅海記者の会見に居合わせ、2少尉の写真[注釈 10]を撮影した東京日日新聞カメラマンの佐藤振寿は、1994年5月に『産経新聞』紙上で、「修羅場になったら(野田少尉が務める)大隊副官は大隊長の命令指示を受けて、何中隊はどうする、と命令を下してなくちゃいけないわけです。(向井少尉が務める)歩兵砲の小隊長は『距離何百メートル、撃てーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定するの。おかしいなと私は思ったんですよ」と証言している[71]
  4. 戦時報道は、言うまでもなく、両少尉の証言は戦意高揚、武勇伝としてのものである[68]
  5. 仮に抜刀による戦闘が実際あったとしても、民間人を殺害させ、勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」のようなものは、東京日日新聞の記述とは全く異なるものである[68]
  6. 東京日日新聞などの記事では、野田少尉向井少尉が戦場で「百人斬り競争」を始め、その途中経過を記者らに逐次伝えたことになっているが、野田が戦後残した手記によると、二人は1937年秋に無錫で東京日日新聞の記者から「ドウデス無錫カラ南京マデ何人斬レルモノカ競争シテミタラ。記事ノ特種ヲ探シテヰルンデスガ」と持ちかけられ、向井が冗談のつもりで応じると、記者は「百人斬競争ノ武勇伝ガ記事ニ出タラ花嫁サンガ殺到シマスゾ」「記事ハ一切記者ニ任セテ下サイ」と述べた[72]。2少尉と記者は無錫で別れ、野田少尉によれば、件の記者と再会した時には、既に「百人斬り競争」の記事が日本で話題になっていたという[72]
  7. 向井少尉が昭和15,6年頃、母校の京城公立商業学校を訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった」、と共に訪れた同級生・田辺の証言がある[73]
  8. 3年後向井中隊長の直属の部下になった宮村喜代治は、昭和15年の秋頃広東で向井中隊長から「あれは冗談だ」「冗談話を新聞記事にしたんだ」「冗談が新聞に載って、内地でえらいことになった」と聞いた。その旨、裁判でも陳述書にしている。報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている[74]
  9. 当時向井少尉の直属の部下だった田中金平は、阿羅健一の取材[要出典]に1983年頃次のように答えたとされる。「まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません」「無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません」「我々の周りに中国兵などいません」[注釈 11]
  10. 2人とも丹陽にも句容にも入城していない、中山陵を見下す地点に行っていない。『記事は一切記者に任せてください』どおり、記事は創作。13日記事の写真が11月29日(または30日)に撮影したものなのは、3者が会っていなかったから[76]
  11. 第3報(12月6日)を掲載した「記事の隣の記事は、浅海記者が同じ12月5日に丹陽で取材した記事であり、丹陽で取材しているはずの浅海記者がはるか離れた句容で2少尉から『百人斬り競争』の結果を取材したことになり、全くありえない」[77](注:実際には、句容と丹陽の間は60kmほど[78]で、車を使うのであれば、前線取材で往復する距離としておかしいものではない。)。浅海記者はその後も丹陽にとどまり、12月10日鈴木記者と合流した[79]ことが戦後の東京裁判尋問調書で知られる。この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事は虚偽である[80]」。さらに、検事から『1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか』と質問され『はい。私がこの記事の執筆者です』と答えている[81]。これにより記事は光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された[注釈 12]
  12. 「毎日新聞社自身、毎日新聞が平成元年3月5日に発行の『昭和史全記録』の中で、百人斬りに触れ、『この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった』と書いている」[82]
  13. 「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという[83]
  14. 本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った[30]

佐藤振壽の証言

  • 第1報の会見に居合わせ2少尉の写真を撮った、東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿は名誉毀損訴訟の陳述書の中で「記事を見たのは、翌年の一月に南京から上海に帰ってからですが、そのときの印象は『浅海はうそっぱちを書いたな』という感想です」と述べた[84]。訴訟の証人尋問では、「(百人斬りは)100%信じることはできません」「(記事は)うそだと思いましたよ」と述べた[85]

肯定側主張について

  • 民衆殺害について
“民衆に対する殺害”に関し、板倉由明は以下のような主張をしている。中支では民衆に「抵抗することが要求され」た。[要出典]「上海で日本軍歓迎の旗を振る婦人の列の陰から便衣隊が一斉射撃をした[注釈 13]。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった[注釈 14]。「老婆といえども情報を探って通報する恐れ」があった。某カメラマンの言[誰によって?]「一度自分がやられそうになった時、相手をやらなければ自分がやられるのだな、ということをしみじみ痛感させられた[88]」。なお昭和20年小磯國昭内閣が本土決戦のために「国民義勇隊」を組織化すると発表したとき、南原繁教授(東京帝国大学法学部長)は次のように語っている。「ゲリラをしますとね、虐殺されても仕方ないです。本当の戦闘員ですと、捕虜として待遇され、そうにひどい目に遭うことはないですが、ゲリラですと直ちに殺されても文句はいえません。あれは一番ひどい目に合います」[89]
  • 志々目彰および回想記(1971年発表)について
    • 志々目彰が野田から聴いたという講演内容によれば「「占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る[90]」。一方、「百人斬り訴訟」裁判の原告側は「中国国民党は、ドイツ式の組織防衛戦を行い、日本軍と遜色ない武器を携帯した近代軍隊でありニーライライと呼びかけられ、塹壕から出てくることはあり得ない」と主張した[91]
    • 処刑について「日本の新聞はニュースさえ報道していない」[92]。野田の同期生・手島清忠も「銃殺されたことを知ったのは後のことである」[93]と1972年に語っている。志々目が“新聞記事”を読み「銃殺は当たり前」と考えた[注釈 15]のは極東裁判(1948年)当時ではない。後の情報(次に話題になるのは23年後)を基に考えたことを、当時の話として語っているという主張がある。[誰によって?]。実際には、死刑判決が出たことであれば、例えば1947年12月に朝日新聞で報じられている[95]。同紙では、共同(通信社)発とされていて、時事通信社の時事年鑑(昭和24年版)にも載っていることから、時事や共同といった通信社が配信し他にも地方紙で報道したものがあることや、先に谷寿夫が銃殺された報道があり、また軍事裁判での死刑は銃殺が一般的なイメージであることから、そのように思ったということは十分考えられる。
  • 望月五三郎の回想記(1985年刊)について
    • 望月の回想記に「重機関銃、軽機関銃の猛射で城壁は破壊されていく」「戦車が城門めがけて激突破した」などとあるが、本当の体験記なのかと思うほど間違いが多いと阿羅健一は言う[96]
    • 「百人斬りの勇士と・・・一躍有名になった人である」。望月はこれを昭和12年11月27日-11月28日の条に記している[97]。東京日日新聞の第1報が出るのが昭和12年11月30日、有名になるのはその後である。また、第1報が出るまでに“競争”が始まっていないことは、名誉棄損訴訟に於ける佐藤振寿の証言がある[注釈 16]。ただし、望月の記述は、日記ではなく後の回想記におけるものである。
    • 望月の回想記では、「連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した」としている[99]。が、野田の士官学校の同期生吉田大桂司からは、伝聞の形ではあるものの片桐連隊長が野田を厳しく戒めたと聞く、あるいは叱ったらしいとの証言[100]もある。
    • 遺族の名誉棄損による賠償訴訟を担当した弁護士の稲田朋美は、望月の親族が電話取材に対し「だれもあんな人のいうことを信用していませんよ。親族にも迷惑ばかりかけていました。そういう本を書いて関係者の方々に送ったということですが、だれも相手にしていないと思います」と語ったという[101]
  • 本多勝一のルポについて
ほとんど知られることのなかった「百人斬り伝説」を「本多勝一記者は中国旅行中に南京で聞きこん」で「『朝日新聞』の連載でむし返し[102]」たと非難する意見がある。鈴木明は、「ルポは、そのネタとなった35年前の『毎日』の記事と比べて、1.戦闘中の手柄話が、故意に平時の殺人ゲームにスリかえられている。2.『上官命令』というフィクションがつけ加えられている。3.『百人斬り』が3回もくり返されたように誇張された表現となっている、など、明らかに『勘ちがい』とはいえない『作りかえ』が成されており・・数十倍も強烈である」という[103]
名誉棄損裁判(後述)に原告側の証人として出廷した佐藤振壽は証人尋問で、本多の取材手法や検証のなかったことを批判した。佐藤は「私に聞かないで百人斬りの話なんか分かるはずはないと思って、従って、朝日新聞の記事はうそであるという結論に至りました。ジャーナリストが一つの事実を報道する場合に、あくまでそれが真実であると確信しなければ、原稿に書いてはいけないことなんですよ」と語った[104]
秦郁彦は、田中正明が本多を"無責任なレポーター"と評したことを紹介している[105]

記事を疑問とする主張

第1報:会見は無錫ではなく常州[注釈 17]浅海一男記者は“無錫に一番乗り”という、11月27日発の記事を書いている[109]。2少尉が属す冨山大隊は26日、すでに常州(無錫の先)に向け追撃に移っており[110]、無錫での会見は不可能だった[111]。29日(か30日)常州で会見に加わった佐藤振壽は、“競争”は未だ始まっていなかったと証言している[注釈 18]。一方浅海記者は、さかのぼって無錫から常州までに「25名を斬」った、「刃こぼれが」した、等と記事に書いている。なお名誉棄損訴訟の判決は、「聞き取った内容を記事にした」という記者の供述に信頼を置く[112]。結果がこの第1報であり2,3,4報である。

第2報:当時当事者が書いた『大野日記』に、2少尉が属す冨山大隊が丹陽に入城した形跡はない[113]

第3報:冨山大隊が属す9連隊は句容を迂回した[114]。5日浅海記者はまだ丹陽にいて[115]、句容にいない(否定論の第3報参照)。

第4報:11日向井少尉に会ったと記事に書いた鈴木二郎記者は、『抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。・・・いぶり出された敵を掃蕩していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは[116]』と1972年の取材に答えている。「紫金山(488m)攻撃」の戦況に限れば、鈴木記者は間違っていない[117]。『南京戦史(1989年)』他によると、冨山大隊が戦ったのは、紫金山麓ではあるが「本街道地区の戦闘」で[118]、両者には明確な線引きがあった[119]。「中山陵を眼下に見下す」地点にも行っていない[120]。9日(9連隊は10日)から始まったこの戦闘は11日も、「益々敵の射撃猛烈[121]」で上から終日射撃され孤立ないしは苦戦して[122]「戦況は進展しなかった[118]」。第3大隊が当初目指す73(m)高地も未だ攻略されていない[123]

一方の浅海記者は、直接の戦場でなかった「孫文陵前の公道あたり」で「両少尉の訪問を受けた[124]」と語る。その場には『向井少尉野田少尉浅海さん、ぼく(鈴木)の4人がいた[125]』という。展転社の『「百人斬り訴訟」裁判記録集』によれば『記事は浅海さんが主に執筆したもの』[126]とは東京裁判の検事に、『どちらが直接執筆したかは忘れました』[127]は「週刊新潮」に、鈴木記者が各々答えている。展転社の『「百人斬り訴訟」裁判記録集』によれば、記事の写真は常州中山門を背に佐藤振壽が11月29日(か30日)に撮影したもので、紫金山麓と合致しない門と分かる部分はカットされて掲載されたという[128]

なお、展転社の『「百人斬り訴訟」裁判記録集』によれば、判決は、記事として具体的には唯一、第4報だけに言及し「冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認められない[70]」ことを一理由として、新聞報道は完全な虚偽ではなかった[129]としているという。

当時の新聞の戦場報道の日付について

従軍して百人斬りについて報じた一人である浅海一男は、従軍しただけでなく、その前後に東京本社の整理部にも勤務、それらの経験からとして、当時の記事の場所と月日はあまり正確でなかったとする。即ち、戦局記事と戦局情報が優先で、記者の携帯無線機の電源容量が貧弱で緊急記事用に電源余力を残しておくため緊急でない記事を現場で二、三日保留することはあり、さらに上海支局に届いてもそこで送稿順位を決め、大阪本社に打電、そこから東京本社に電話で送稿されるので、それぞれで掲載順位が前後し、さらに掲載時には原稿になるべく最新の日付を付けることは当時の整理部の習慣であったという[130]

論争を巡る著名人の言動

  • 平野謙は、毎日新聞で『南京大虐殺のまぼろし』が出版された当初の1973年3月、「私はその克明な追跡ぶりに感嘆し、たとえば、南京虐殺事件の責任者の一人として処刑された向井少尉の無実などについては、一読者として肯定せざるを得なかった」と賞賛したが[131]、同僚からの意見があって、洞富雄の『南京大虐殺 ― 「まぼろし」化工作批判』を読み、同年7月、同紙の同じ欄で「今度洞富雄の綿密な論文を読むに及んで、事実認識というものが、いかに困難なものかを改めて痛感(中略)、一方的に鈴木明の筆力に感心したのは、いささか軽率だったかなと思いかえさぬでもなかった[132]」と述べ、複雑な歴史的事件に軽々に意見を挿むのは慎むべきだったとコメントした。
  • 臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであった・・」
  • 開高健「ジャーナリズムの幼稚と無責任をうまくついた作品で・・もっと正面から告発してもよかった」
  • 小田実「百人斬りというような事件は、真実には、それ自体はたしかになかったものにちがいない」[133]
  • 原剛は、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」という[4]
  • ボブ・ワカバヤシは、「総合すると、私は、浅海の記述は二人の将校が彼にした自慢話がもとになっているため、完全に捏造されたものではないものの、二人の将校が不当に処刑され、事件が虚構であったとの結論に達した。この結論は、南京アトロシティ全体が捏造であることを意味するものでもなく、帝国陸軍が戦争犯罪から免除されることを意味するものでもない。」と述べた[134]
  • 石美瑜中国語版は、南京で百人斬り競争の事件を裁いたときの裁判長。生まれは福州市閩侯県、南京で裁判を担当した当時は37才、1949年から台湾在住。鈴木 明 が南京での百人斬り競争裁判について取材にいったが、鈴木によれば、石は訛りの強い北京語で話し、鈴木の通訳が話を理解できなかったとする。録音テープも北京に20年いた中国語の先生に聞いてもらったところ上海訛りが強いとして理解できず、結局上海生まれの在日華僑に録音を訳してもらったという。しかし、和多田進が石美瑜にインタビューしてみると台湾生まれの通訳(ネイティブ言語は記載なし)と会話に何の不自由もなかったとし、さらに石美瑜の話によれば、鈴木は取材目的も告げずに、石美瑜によれば(石自身も詳しいことは忘れたとしながらも)向井か野田の息子かその友人と称していたといい、和多田は、これを鈴木は身元を偽る形で会っていたとし、これでは話が嚙み合わず真相がわかるはずがないとして鈴木を非難している[135]。ただし、鈴木の著書では、「向井少尉のゆかりの者である」という説明をすると、石美瑜は「おお向井、よく憶えている」「いつも堂々としてた」と日本式敬礼のジェスチャーをして北京語でペラペラと話し始めた、(通訳は北京語が苦手だったらしく)話が分からないと言えば話が進まなくなるから其れは言えなかった、といった風に書かれている[136]。一方で、鈴木の著書を読む限りでは、鈴木自身も通訳が石の北京語について手こずっていることは判っていて、頼んだ裁判のことを聞いてくれたのかも判らないとまでしていながら、相手先への訪問(自宅かどうかは不明)であるにもかかわらず、家人を通すなり何らかの形で確かめようともしていない[136]。また、鈴木の書いた内容を見ても、石裁判官が南京事件と聞いて顔を一瞬こわばらせたとしながら彼が死刑判決を出したはずの向井ゆかりの者と聞くと途端にまるで喜んだかリラックスしたかのように描写され、さらに(かつての裁判での判決書では、英雄になって良い結婚相手を得る為との向井の説明に呆れ、非難していたはずが)向井を誉めそやす[136]等、不自然な点が多い。なお、和多田のインタビューによれば、百人斬りについて石美瑜は、野田と向井の百人斬りは戦争としての(正当な行為の)範囲を超えると判断した、また、2人はブランデーを賭けていたと語って非難している[135]

名誉毀損裁判

2003年4月28日野田向井の遺族が遺族及び死者に対する名誉毀損にあたるとして毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一らを提訴した。原告側代理人弁護士は稲田朋美[137][138]

訴訟の主な争点

「戦闘による百人斬り」を言いだしたのは誰か

佐藤振壽カメラマン、中山陵の前で昭和十三年十二月十三日に撮影
  • 原告の主張 - 報道された新聞記事大阪毎日新聞、東京日日新聞の記者らが戦意高揚のために創作した[139]
  • 被告(毎日新聞)の主張 - 報道された新聞記事は両少尉が記者たちに語ったことをそのまま伝えた。記者たちは実際に二人が中国人を斬ったところは見ていない。
  • 裁判所の判断
    1. 日日新聞に掲載された写真を撮った佐藤カメラマン(原告側証人)は、記事の執筆には関与していないが、「百人斬り競争」の話を両少尉から直接聞いたと供述しており、これは当時の従軍メモを元にしている点からも信憑性が高い。
    2. 両少尉自身も、遺書等で両少尉のいずれかが記者に話したと記している。
    3. 野田少尉が中村硯郎あてに百人切りを自慢する手紙を送ったり、地元鹿児島で百人切りを認めるコメントをしたり講演会をしたりしており、少なくとも野田少尉は百人切りを認める発言をしている。
等の理由により、『両少尉が浅見記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。』と判断した[140]

向井少尉の負傷について

  • 原告の主張 - 当時、向井少尉丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ、「百人斬り競争」に参加することは不可能であった[141]。両少尉の手記や、冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。
  • 被告(本多勝一)の主張 - それらは南京軍事裁判で向井少尉が死刑を回避するために捏造したものである。検察の主張をそのまま認めたら死刑になってしまうのでこの行為自体は仕方ない行為だが、資料の裏付けは無く、信憑性はない。
  • 裁判所の判断
    1. 両少尉の手記や、冨山大隊長の証明書は南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり、南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていない。
    2. 向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し、離隊しているのであれば、向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然記載があるはずだが、そのような記載はない。
等の理由により、『向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ、紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるにたりない』と判断した[141]

戦闘による百人斬りは実際に行われたか

  • 原告の主張 - 山本七平は著書「私の中の日本軍」で「日本刀は三人戦闘で斬れば使い物にならなくなる。だから100人も斬れるはずがないので100人斬り報道は虚偽である」と主張。原告もそれを引用して同様の主張をした。
  • 被告(本多勝一)の主張 - 宮本武蔵や佐々木小次郎でもない一般人が百人も戦闘で斬れるはずがない。実際には両少尉は捕虜や農民を斬ったのであり、それを新聞記者にぼかして伝えたのだ。
  • 裁判所の判断 - 南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果ははなはだ疑わしいものと考えるのが合理的である[142]

実際には何が行われたか

  • 被告(本多勝一)の主張 -
    1. 野田少尉の教官だった望月五三郎が靖国神社に寄贈した体験記「私の支那事変」に、野田少尉が農民をひっぱってきて首を斬り、その行為は中国人を見つければ向井少尉と奪い合いをするほどエスカレートしていった記述がある。
    2. 野田少尉と同郷である志々目彰は小学生の頃、学校で野田少尉が講演を行い、野田少尉が自ら「実は百人斬りの内容は捕虜を斬った」ことを語ったと証言している
    3. 「南京大虐殺のまぼろし」を記した鈴木明も、対象者が捕虜であれば可能性があることを認めている。
    4. 南京攻略戦当時の日本軍には捕虜や農民の殺害はありふれていたことであり、そのことを裏付ける資料は多数存在する。
等の根拠から、実際には両少尉は捕虜や農民の殺害数を競う「殺人ゲーム」をしていたと推察される。
  • 裁判所の判断
    1. 望月五三郎の記述の真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存在しない。
    2. 志々目彰の小学校の同級生である辛島勝一も、志々目彰と一緒の機会に、野田少尉から、百人という多人数ではないが逃走する捕虜をみせしめ処刑のために斬殺したという話を聞いた旨述べている。辛島が野田少尉を擁護する立場でそのような内容を述べていることに鑑みれば、ことさら虚偽を述べたものとも考え難く、少なくとも野田少尉が「捕虜を斬った」という話をしたことは両名の記憶が一致している。
    3. 本多は捕虜を斬ったとする鵜野晋太郎の手記を引用している。これらの話も、真偽のほどは定かではないというほかないが、自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものと言える。
以上の点から、その重要な部分において全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。以上と異なる前提に立つ原告らの主張は、いずれも採用することはできない。とくに東京高裁は、「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」と認定した[143]

時効

  • 被告(毎日新聞)の主張 - 新聞記事は1937年のものであり、民法724条の除斥期間(3年)は経過しており、訂正・謝罪の義務はない。
  • 原告の主張 - 新聞記事は60年以上前の物であるが、その記事は虚報であり、その虚報を正さずに放置し続ける限り、時効は延長する。
  • 裁判所の判断 - 前述の通り新聞記事が「虚偽であることが明らかになったとまで認めることはできない」。よって時効は考慮するまでもない[注釈 19]。また仮に原告らの請求権が存在していたとしても除斥期間を経過しており時効は成立している。

上記等の理由により、2005年8月23日、東京地裁において原告請求全面棄却の判決が出された[144]

原告は控訴、2006年2月22日、東京高裁は一回審理で結審した。なお、控訴人が提出した第2準備書面の一部の陳述について、裁判長は内容不適切(裁判官侮辱)につき陳述を認めないとした。結審の後、控訴人側弁護士は裁判官の忌避を申し立てたが3月1日却下された(結審後の申立てや訴訟指揮を理由とした裁判官忌避は通常認められない)。5月24日、控訴棄却判決[145]

原告側は上告したが12月22日、最高裁においても上告棄却判決。原告側の敗訴が確定した。

備考

  • 証人の制限。原告側の証人として出廷した佐藤振寿は原告側で唯一の証人だった。原告側弁護人を務めた稲田朋美によると、原告側は佐藤以外にも証人を申請し、上申書も提出したが、裁判所から却下されたという[146]
  • 本多記者の弁護人を務めた穂積 剛は、南京事件に関しこれを含めて3件争い、いずれも地裁から最高裁まで全て勝訴している。穂積は、これらは弁護団を組んで担当したし、自分が優秀だったからというより、それ以前の問題として、「南京大虐殺否定論」があまりにレベルの低かったからとした上で、これらの経験を通して、巷に流布されている「南京大虐殺否定論」が、いかにデタラメきわまりないものかを確信したとする[143]

南京軍事法廷の詳細

1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞やその転載翻訳を資料とする『外人目睹中之日軍暴行』[23]を基に南京軍事法廷において「我国人」殺害の容疑でそれぞれ起訴された。12月5日向井の法廷弁論を終えた後、二人の事件は合同裁判に付することとなり、さらに其の後、別の三百人斬りを理由に既に起訴され同月12日にも公判が行われていた田中軍吉陸軍少佐[注釈 4](事件当時、第六師団第四五連隊中隊長、陸軍大尉)と合同公判を行うこととなった。18日に行われた公判ではより多くの人が聞けるよう法廷外にも拡声器を設けられ、石美瑜裁判長によって当日18日には「戦争中捕虜及び非戦闘員に共同で連続して虐殺を行った」[25]として全員死刑判決を受けた。3名は中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。

両名は百人斬りはホラ話あるいは戦闘行為であったと主張、部下を証人として出廷させて欲しいと希望していたものの、部下の証言では信頼性に欠けるとされ、単なる時間稼ぎのための主張とみなされて退けられた。一方で、向井は家族の尽力により、直轄の隊長と浅海記者から弁護のための上申書を出してもらっている。また、両名は競争にブランデーを賭けていたとされる。

北村稔は、ティンパリーによる脚色や『戦争とは何か』の中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったと主張している[147]

秦郁彦は、判決は新聞報道は証拠にならないという中国最高法院の判例に違背し、告訴状の「我国人」を説明抜きで「捕虜及び非戦闘員」にすりかえ判示していると批判している[148]。ただし、向井自身が勇士と賞賛されることで良縁(再婚)を得るために百人斬り競争を行った(これは、報道や鈴木明の著書の内容とも一致している。)とも語っていて、判決からは、検察は被告人の正常な戦闘行為との主張を受入れずに起訴、写真が証拠というより写真・調書などの書証をもとにした法廷での被告人らへの尋問結果としての判断のようにも見える。

鈴木明は、1972年頃元裁判長に会い、そのとき録音したテープの中で石は「この3人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、5人の判事のうち3人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には何応欽将軍と蔣介石総統の直接の意見も入っていた」と、証言したとしている[149]

遺書では、野田、向井共に死刑は天命と諦めるが、捕虜・非戦闘員を殺害した事はない、南京虐殺事件の罪名は受け入れられないと書いている。さらに、向井は、野田君の発言が記事になり、誰が悪いわけでなく人が集まれば冗談も出るとした上で、自身らの行為は明らかに戦闘行為だったとする[150]。鈴木明によれば、浅海記者はもうよく覚えていないとしながらも気の毒に思って向井の家族からの依頼で本人の言った通り上申書を書き[151]、家族からは、具体的に書いてもらった内容が語られるものの、百人斬りは浅海記者の創作だと書いて欲しかった。だが、それは無理だったのだろう、と語られている[152]。向井自身は、浅海からの上申書も本当の証明だったが一ヶ条だけ誤解をすれば悪くとれるし、その一ヶ条だけが人情として気に掛ったと述べながらも、浅海にも上申書を書いてくれたことに礼を言ってくれるよう家族に伝えている[150]

また、鈴木の著書では、向井の家族が当時の向井の直属隊長と連絡がとれ、その結果、事件当時向井は怪我を負っていて百人斬りなどできない、12月2日に怪我を負い救護班に収容され15日に帰隊し治療すとの証明書を得られたので送った、それで向井の弟は向井を助けられたと信じていた、しかし、1947年12月20日朝日新聞に「向井・野田・田中軍吉の「3戦犯が死刑は、(略)各死刑を宣告された」「他の者は反証を提出することができたが此の3戦犯は反証を提出できなかった」と報じられたことで、向井の弟は「狂ったように心当たりのところを駈けずり廻った」と書かれているが、その内容と詳細については「東京と南京の距離は余りに遠かった」と曖昧な書き方で、鈴木は済ましている[153]。笠原十九司は、向井の負傷入院は部下の田中金平の手記に全くそのような記述が無く、向井本人が後に出征以来病気もケガもないと語っており信頼できないと述べている[154]

その他

台湾台北市国軍歴史文物館の展示。田伯烈の"What's War Means"の中文版『外人目睹中之日軍暴行』及軍事委員會政治部『日寇暴行実録』に掲載された写真の左右反転画像のパネルに、九十八式軍刀 (昭和十三年制式)がはめ込まれて展示されている(「九八式鐵殻軍刀(南京大屠殺残殺我同胞107人之軍刀:魏炳文将軍公子魏亮先生捐贈」)。
  • 2004年、集英社の週刊ヤングジャンプ43号に本宮ひろ志の漫画『国が燃える』第88話が掲載された。そこでは、南京事件をとりあげ、二人の兵士が捕虜を並べて速く斬る競争をする描写をしたが、政治結社正氣塾や『集英社問題を考える地方議員の会』の抗議を受けて集英社は、「現在、戦犯として処罰された方々のご遺族の皆様が裁判中です。係争中という時期に、誤解を招きかねない描写を掲載した件につきましては、関係者の皆様には、深くお詫び申し上げます」とし、当該シーンを削除した。[要出典]
  • 毎日新聞社が1989年(平成元年)に刊行した『昭和史全記録 Chronicle 1926-1989』には、向井少尉が負傷して不在であったことを理由として、この記事の百人斬りは事実無根だったと記載している[3][155]
  • 中華人民共和国南京市にある南京大虐殺紀念館では、この東京日日新聞の記事を「虐殺の証拠」として等身大パネルを作成して展示をしている[71]
  • 台湾中華民国台北市にある中華民国軍の歴史資料館である国軍歴史文物館には、魏炳文少将の親族より贈られた、刀身に「南京の役 殺一〇七人」と刻まれた軍刀が展示されている。同館はこの軍刀を、“南京大虐殺の際、同胞の中国人を107人斬った日本軍刀”であるとして、向井・野田両少尉のいずれかが使用したものに間違いないと主張している。2人が斬ったとされる人数(向井105人・野田106人)より多いことについては、百人斬りが日本で報道された後に、さらに1人斬った可能性があるとしている[156]
  • 日本軍の軍刀は第一次上海事変の戦訓から改良され[157]、下士官兵にも支給されていた[158][注釈 20]
  • 日本刀を実戦で使用すると、損傷が甚だしかった[161]。そこで日本刀匠協会(理事長栗原彦三郎)は、修理慰問団を中国大陸に派遣している[162][注釈 21]
  • 日中戦争では、日本兵が「敵兵○○人を斬った」とする記事が複数掲載された[164][165][166]。「ある准尉がシベリア出兵から日中戦争にかけて百人斬りに挑戦していたが、70人を斬ったところで戦死した。」という記事もある[167]。名刀ならば80名斬っても少しも刃こぼれせず、新刀や現代刀でも正式に鍛錬したものなら20~30名斬ってもビクともせず、ただし昭和刀は論外であったという[168]。また肩は筋肉が発達している上に着衣もあって日本刀が損傷しやすく、首の方が斬りやすかったとの回想もある[169]
  • 野田少尉、向井少尉と共に処刑された田中軍吉は「300人斬りの鬼部隊長」の肩書きでアメリカ合衆国に渡り、ロサンゼルスサンフランシスコで講演会をおこなっている[注釈 4]


関連項目

脚注

参考文献

関連文献

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