南雲親一郎

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死没 (1963-11-18) 1963年11月18日(77歳没)
日本の旗 日本山形県
軍歴 1907年 - 1939年
1940年 - 1941年(満洲国軍)
1945年
南雲 親一郎
生誕 1886年9月19日
日本の旗 日本山形県
死没 (1963-11-18) 1963年11月18日(77歳没)
日本の旗 日本山形県
所属組織  大日本帝国陸軍
 満洲国軍
軍歴 1907年 - 1939年
1940年 - 1941年(満洲国軍)
1945年
最終階級 陸軍少将
満洲国軍中将
親族 南雲忠一(従弟)
南雲克郎(長男)
南雲憲一郎(孫)
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南雲 親一郎(なぐも しんいちろう、1886年明治19年)9月19日[1] - 1963年昭和38年)11月18日(22日とも)[1])は、日本および満州国陸軍軍人陸士19期卒(歩兵)。日本陸軍では長く教育畑におり、満洲国軍でも陸軍軍官学校長を務めた[2]。最終階級は陸軍少将満州国軍中将。

1886年(明治19年)に山形県南置賜郡笹野村(現在の米沢市笹野)で南雲親吉の次男として生まれた[1][3]

米沢尋常中学興譲館を経て[4]、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校第19期卒業[1]歩兵第32連隊より会津の歩兵第65連隊に転じたのち少尉任官。陸軍戸山学校、陸軍歩兵学校、陸士区隊長(27期担当)を経て1921年(大正10年)7月、久邇宮邦久王の訓育中隊長兼教育主任を担当[5][3]。教育学研究のため東京帝国大学聴講生となったのち、陸士教育部長。1933年(昭和8年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し[6]第2師団司令部附となり[6]新潟医科大学に配属された[6]1935年(昭和10年)3月15日津連隊区司令官に転じ[7]1936年(昭和11年)に朝鮮・龍山の歩兵第78連隊長に就任した[6]

1937年(昭和12年)8月2日に陸軍少将に進級し[6]第8師団司令部附を経て[1]9月16日に歩兵第108旅団長(北支那方面軍第110師団[8])に就任した[1]日中戦争に出動し、京漢鉄道沿線・石門地区の警備や、冀西・晋察冀辺区で討伐戦を行い、治安維持に努めた[1]1939年(昭和14年)5月31日に北支那方面軍司令部附となり[1]7月22日に独立混成第15旅団長(北支那方面軍[9][10])に就任した[1]12月1日に待命[6]12月28日予備役に編入された[1]

その後、1940年12月に満洲国軍中将に任ぜられ、翌年1月に満洲国陸軍軍官学校長に就任し[2][5]1944年(昭和19年)に朴正熙が同校を卒業している[2]。卒業後は、朴から高麗人参が送られるようになったという[2]

1945年(昭和20年)3月31日に召集され、山形連隊区司令官兼山形地区司令官に就任した[11]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[12]

戦後は山形県に帰郷し、会社顧問のかたわら山形県心友会を設立。また全国戦争犠牲者援護会・郷友会・軍恩連盟全国連合会各山形県支部長、日本弘道会山形支会長を歴任し慰霊活動を主宰していた[5]

1961年(昭和36年)11月に国家再建最高会議議長となった朴正熙が訪日した際には[2]池田勇人総理との会談後に開かれた昼食会に呼ばれ[2]、再会を果たした[2]

晩年は高血圧を患い、夕食中に心臓麻痺で急死[5]

年譜

人物

交流のあった山形県知事村山道雄は、「公明にして温厚真摯、情愛深い人格者である」と評する[3]

兄は陸士14期卒の騎兵中佐南雲純太郎[17]。長男は陸士54期卒で陸軍大尉・陸将補の南雲克郎[5][3]。次男は仙台三越、三男は出光興産勤務[5]自衛隊の初代統合作戦司令官南雲憲一郎空将は孫である[18]

『七星 : 満洲国軍日系軍官七期生誌』(七星会、1984年)によれば、真珠湾攻撃などを指揮した旧海軍南雲忠一大将は従弟と記載しており[19]、また『大陸の光芒 : 満洲国軍日系軍官四期生誌 下巻』(満洲国軍日系軍官四期生会編、1983年)でも、南雲大将は同族関係、梅津美治郎関東軍総司令官は親戚にあたると記載している[20]。ただし南雲憲一郎空将は南雲大将との血縁関係を否定している[21]

栄典

脚注

参考文献

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