博雅亭

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博雅亭(はくがてい)は、かつて横浜伊勢佐木町に所在した中華料理店である。日本における焼売発祥の店であった[1]

伊勢佐木町の博雅亭があった位置。現在のパチンコ店PIAの一部'"`UNIQ--ref-00000001-QINU`"'

点心の起源はの時代(西暦600年前後)の中国であり、現代の日本で広く食べられている焼売は、点心の一つが広東料理の文化のもとで発展してきたものと考えられる[2]

焼売が日本で食べられるようになった始まりの地は横浜・神戸長崎中華街(南京町)である可能性が高く、その中でもいち早く焼売の存在が確認できたのは横浜中華街である。1859年(安政6年)に横浜港が開港。1871年頃には、横浜新田に130軒ほどの飲食店ができた[注釈 1]1881年(明治14年)に、広東省出身の料理人である鮑棠[注釈 2]により博雅亭が創業[3]。1884年には現存する中華料理店としては最古である聘珍樓が開店した。聘珍樓の創業時のメニュー表は関東大震災で焼失しており現存しないが、1930年頃のメニューでは土産として焼売が提供されていたことが確認できる[5]1899年(明治32年)に外国人居留地が廃止になり、博雅亭は伊勢佐木町に移転[6]。中国人が日本人町に出店した第1号であった[7]。この時に、名物料理として「博雅のシウマイ」を発売した。これ以前から横浜や長崎の南京町では点心の一つとして焼売に相当する品を提供していたと考えられるが、「焼売」として売り出したのは博雅亭が初である[8]。明治から大正にかけて、関東の人気店を掲載した雑誌に「浅草來々軒か博雅のシウマイ」と取り上げられるほど人気を博した[9]

のちに「崎陽軒のシウマイ」が全国的に有名になるが[10]、同社がシウマイを発売したのは昭和に入った1928年で、1954年には横浜駅駅弁として「シウマイ弁当」販売を開始した[11]。約100年に渡り、横浜の味の一つとして親しまれている。

二代目料理長の鮑博公は大正初期より[4]メニュー開発を重ね、1922年(大正11年)に神奈川県産豚肉、北海道産乾燥貝柱クルマエビ[12]、青豆[4]を使ったオリジナルの焼売を発売し、人気商品となった[12]。しかしその翌年、関東大震災で店は全焼し、その後伊勢佐木町のアーチをくぐった左側の伊勢佐木ビルに入店した[注釈 3]。1955年に合名会社を設立。その後、三代目の利民に引き継がれた。化学調味料味の素」はこの頃すでに販売されていたが[注釈 4]、化学調味料不使用の製法で作られた。戦前から戦後にかけて、伊勢佐木町の発展とともに店は繁盛し、東京から電車で訪れる客も多く、運転手付きの外車で乗り付ける常連客もいた。シウマイのみならず、焼きそばうま煮かに玉なども評判になった[6]

1948年[14]、博公の義弟により野毛町都橋近くに姉妹店「博雅茶郷」を出店。同店は「野毛博雅」とも呼ばれた[3]。1959年には、横浜駅西口に横浜髙島屋が開店[注釈 5]。同百貨店からの依頼を受け、博雅茶郷が「ヨコハマ博雅」のブランドでシウマイの販売を開始した。売れ行きは好調で、のちに多忙のため野毛の店を閉店することとなる[注釈 6]。2000年に、生産を増やすため保土ケ谷に工場を開設し、機械での製造を始めた。のちに、髙島屋により近い神奈川区神大寺に工場を移転している[3]

伊勢佐木町の博雅亭は子息が医師になり店を継がなかったこともあり、隣接する丸井[注釈 7]の増築を機に1980年に閉店した[19]

味を継ぐ店

神奈川区神大寺のヨコハマ博雅があった位置。

博雅亭の閉店後、斜向かいの百貨店横浜松坂屋内の台湾料理店「ロンシャン」が味を引き継ぎ、1階売店で販売を続けた[20]が、2008年に松坂屋の閉店に伴い販売終了。高島屋での「ヨコハマ博雅」の販売も、その翌年の2009年に終了した。その後、博雅茶郷の職人が工場長となり、神大寺の工場で製造直売と、弁当のワゴン販売を始めた。これを機に、機械生産から手作りに戻した。2011年には、経営を引き継いだ彭慧華により、「株式会社博雅」を設立。店頭での小売りや通信販売を行ったが[19]、2025年1月31日で閉店した[21]

1986年1月3日付の神奈川新聞の新年挨拶広告には、伊勢佐木町の博雅亭があった近くに「新博雅亭」なる店が掲載されているが、はまれぽ.comの調べによると、博雅亭および博雅茶郷とは関係がないようである[19]

東京の浅草の『中華料理 博雅』は、初代が横浜の博雅亭で修業した。焼売はしばらくメニューから途絶えていたが、4代目が「博雅のシュウマイ」として復活させた[22]

博雅のシウマイ

脚注

参考文献

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