横浜中華街の歴史
神奈川県横浜市にある横浜中華街の歴史
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横浜中華街の歴史(よこはまちゅうかがいのれきし)では、神奈川県横浜市中区山下町にある横浜中華街の歴史について詳述する。

1858年(安政5年)に開港した横浜には、欧米系商人とともに多くの中国人が来訪するようになった。中国人たちは横浜新田を埋め立てて造成された沼地居留地に集まって住むようになる。これが横浜中華街の前身であった。ここに居住するようになった中国人は、その多くが広東省からやってきた。中国人が集まる中で関帝廟など中国人コミュニティの核となる施設が整っていき、日清修好条規の締結によって合法的に日本での滞在が許されるようになると、中国人の増加のペースが上がっていく。しかし日清戦争により清との国交が断絶状態となると、中国人の人口は激減する。日清戦争後、横浜中華街の中国人コミュニティは復活するが、関東大震災による甚大な被害を被り、震災後の混乱の中で中国人の虐殺事件も発生し、再び中国人の数は激減する。震災からの復興が進む中で、横浜中華街の中国人コミュニティは復活し、昭和戦前期には中華料理店が観光客を集めるなど、観光地化も進んだ。しかし満洲事変、日中戦争と、日中間の関係が悪化する中で横浜中華街は冬の時代となり、横浜大空襲で再び焼け野原となる。
戦後の横浜中華街は闇市、そして進駐軍らを相手にした歓楽街化が進み、暗黒街的なイメージがつけられた。その後、横浜中華街在住の中国人と、横浜市当局らとの協力により、中華料理店が集中した観光地化が進んでいくが、本国である中国の中華人民共和国、中華民国の争いに巻き込まれる形で、横浜中華街の中国人たちも二派に分断され苦しめられた。高度経済成長、その後のグルメブームなどで横浜を代表する観光地へと成長していく中で、二派に分かれた横浜中華街の中国人コミュニティの和解も進んでいく。その後、中国本土の改革開放の流れを受けて、新たに横浜中華街にやって来る新華僑が現れ、中華街内に中国関係ではない店舗が増えていくなどの変化が起きている。
開国と中国人の来訪

1854年(安政元年)、日本に来航したペリーは、横浜の地で日米和親条約の締結交渉を行った。その後、1858年7月29日(安政5年6月19日)に調印された日米修好通商条約により、すでに日米和親条約により開港していた下田、箱館に加えて、新潟、神奈川、兵庫、長崎が開港されることになった[1]。しかし日本の陸上交通の大動脈である東海道沿いの神奈川の開港に関しては、幕府は外国人とのトラブル発生の恐れを理由として認めず、アメリカ、イギリスの外交団からの反対を押し切って神奈川の対岸にあたる横浜の開港を決定した[1][2]。
幕府は10万両の予算で横浜に埠頭を建設し、外国人居留地を整備した[3]。外国人居留地とは日本と通商条約を結んだ外国人の居住と貿易などの経済活動を認めた地域であり、横浜の場合、周辺地域とは河川と堀で区切られた約1平方キロメートルの、現在の横浜市中区の山下町に当たる場所であった[2]。1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜は開港した[1]。横浜は沿岸付近の水深が深く大型船の来航に好都合であった。また後背地には江戸時代に開発が進められてきた新田があったため、市街地の拡大余地が十分にあり、神奈川ではなくて横浜が開港場となったことは大きなメリットとなって急速に発展していくことになる[4]。開港後、開港場の中で横浜港、箱館港が急成長をしていく。箱館は北海道原産の海産物の輸出が好調であり、横浜は生糸、茶、綿製品の輸出が他の開港場を圧倒した[5]。
横浜開港とほぼ同時に中国人がやって来るようになった。開港した横浜に貿易のため進出した欧米商人の多くは、中国大陸の上海や香港、広東で中国との貿易を行っていた。欧米商人は中国での貿易のために中国人を現地スタッフとして採用していた。中国人スタッフは中国、欧米の言語と商習慣に精通し、欧米諸国の中国での経済活動に欠かせない存在となっていた買弁と呼ばれる職業も生まれていた[6]。日本に進出した欧米商人たちは、欧米人に比べて漢字によるコミュニケーションが容易な中国人スタッフの協力を求めた。また欧米と東アジア諸国とでは度量衡や通貨単位が異なり、日本の主力産品であった生糸や茶の商品知識を持つ中国人買弁は、欧米商人にとって日本での経済活動に不可欠な人材であった。その上、アジア各地に存在する中国人の商業ネットワークの利用とその経験の活用が無ければ日本相手の貿易の成功はおぼつかなかった[7]。
欧米人商人とともに買弁を中心とした中国人が横浜にやって来た以外に、中国自体にも横浜など諸外国に人々が移住する理由があった。華中、華南は唐の晩期以降、人口の増加傾向が続き、人口圧が強まって移民が恒常化していた[8]。特に外国との交流が活発になるにつれて、沿岸部では外国に進出する風潮が強まっていた[9]。アヘン戦争終結後の南京条約により、欧米諸国は中国沿岸に開港場を設けて中国への経済的進出が進められていく中で、外国貿易の拡大によって中国人商人たちも積極的に外国へ進出するようになった[10]。そしてアヘン戦争後、中国国内は太平天国の乱により大きな混乱に見舞われる。太平天国の乱による影響は華中、華南で大きく、混乱状態の華中、華南から新天地を求めて海外へと向かう人々も多かった。そのような時代の流れの中で、横浜にも欧米商人とともにやって来た中国人ばかりではなく、単身で来訪する人々も増えていった[11]。
横浜中華街の成立
籍牌制度の導入
開国後、中国人たちはまず欧米商人たちの使用人として横浜にやって来た。この時点では欧米人に雇用されて横浜にやって来ていたインド人、アフリカ人らとともに、雇用主である欧米人に準じる扱いをされていた[12]。しかし中国人は欧米商人との契約が解除された後も横浜に留まるものが多かった。また外国で一旗揚げようと、先に横浜で生活を始めた人々のつてを頼って、欧米人との雇用関係が無い状態で横浜にやって来る者も増えてきた。そしていつまでも欧米人の使用人に甘んじずに、独立して商売を始める中国人も出現し始めた[13]。横浜で暮らす中国人が増加していく中で、中国人コミュニティ相手に商売を行う人物も出てきた[14]。
日本と通商条約を結んでいない清の国民は、居住や経済活動は本来認められていなかった[15]。下層階級の中国人も増えていく中で、欧米人からは中国人の居留地の衛生問題、賭博場などの治安問題が指摘され、しかも無条約であるため日本在住の領事も不在であり、中国人を監督する本国の機関がないことに対する懸念が出されるようになった[16]。また独自に商売を始めた中国人は欧米商人のライバル的存在となるため、欧米人から規制の声が上がるようになった[17]。そこで欧米商人の使用人であるとして黙認されていた在留中国人に関して、取り締まりや管理の実施が検討されるようになった[16]。
欧米側は欧米商人の使用人としての中国人の滞在は認めるものの、独立して商売を始めた中国人は国外退去させるように幕府に要求した。しかし幕府側は取り締まりがきちんとできない限りすべての中国人を国外退去させるべきと主張した[18]。結局、1867年(慶応3年)11月に横浜外国人居留地規則が制定された。これは横浜に在留する外国人全般に関する規則であり、居留外国人業務を管轄する居留地取締局が設置され、欧米籍の船に乗って来航してきた中国人に関しては、神奈川奉行が欧米の領事との協議の上で取り締まりを行うとされた[19]。そして同月、籍牌制度が実施され、横浜在留の中国人は居留地取締局において、有料で名籍への記載手続きを行うことが義務付けられることになった[20]。籍牌制度によって横浜在留中国人に在留の法的根拠が与えられることになり、横浜に在留する中国人が急増する要因となった[21]。
横浜新田

横浜中華街となる土地は、もともと1796年(寛政8年)に埋立により造成された横浜新田であった[22]。開港前の横浜は山手の台地から延びた、長さ約1.5キロメートル、幅約300メートルの細長い砂州上にあった村であり、砂州の内側は入江になっていた[23]。入江は江戸時代に入ってから埋立により新田開発が進められるようになり、横浜新田はそのような新田開発地のひとつであり、山手の台地から延びた砂州の付け根付近に位置していた[22]。横浜新田は主に水田として利用され、水が得にくい砂州上にあって漁業と畑作中心であった横浜村の中で貴重な水田であった[23][24]。この横浜新田の地割を反映した形で、周辺地域から約45度異なる東西南北にほぼ沿った方向に延びる現在の中華街の道路が造られることになった[25][26][27]。
開港後、横浜は急速に発展したため、開港時に整備された外国人居留地はすぐに満杯となって拡張工事が始まった[28]。神奈川奉行は横浜新田の造成工事を開始して、1861年(文久元年)2月までに元町奥の丘を切り崩した土砂で水田であった横浜新田を埋立て、市街地として整備した[注釈 1][30][31]。もともと水田であったため、新たな外国人居留地として整備された横浜新田は当初、沼地居留地(Swamp Concession)と呼ばれた。沼地居留地には遅れて横浜にやってきた外国人たちが居住するようになり、当初は主に欧米系の洋裁店、パン屋、洗濯屋、大工、鍛冶屋など、外国人居留者の日常生活を支える業種の人々が住み始めた[32]。
沼地居留地と中国人コミュニティ
横浜の外国人居留地の中での一等地は海沿いの海岸通りと呼ばれていた地域であった。海岸通りはもともと山手の台地から延びた砂州を造成した土地であり、水はけが良くて横浜港が見渡せる眺望にも恵まれていた。一方、埋立てにより造成された沼地居留地は水はけが悪かった[33]。横浜にやって来た中国人は居住条件が悪かった沼地居留地に集まり、コミュニティを形成していくことになる[34]。
沼地居留地が完成した直後の文久2年(1862年ないし1863年)、横浜在住の中国人が沼地居留地内に後に関帝廟となる関羽を祭る小さな堂を建立した。中国人にとって関帝廟は信仰対象であるとともに中国人コミュニティの核となる場所でもある[35]。沼地居留地に関帝廟が建立されることになった理由としては、条件の良い外国人居留地がすでに満杯であったという事情とともに、横浜新田の地割を引き継いだ沼地居留地の街路が東西南北の方向に延びていて、南方の山手の高台からの気が遮られることなく流れるという、風水の観点からみて優れた土地であったからと考えられる[26]。
また関羽を祭る堂の建立とほぼ同時期に、同済医院という中国人系の医療機関が開業する。その後、同済医院と同番地に幕末から明治初年には会芳楼という劇場兼料理店が建てられる[30][36]。このように沼地居留地には中国人の信仰とコミュニティの核となる関帝廟、医療機関、娯楽機関が建てられ、中国人が集中的に住む中華街が形成されるようになった[35]。明治初年、中国人が多く住み始めた沼地居留地はやがて唐人街と呼ばれるようになった[37]。
居留地時代の中国人コミュニティ

横浜にやって来た中国人の故郷は、中国人墓地の中華義荘の墓碑を分析した結果によれば広東省出身者が圧倒的に多く、続いて江蘇省、浙江省、福建省、台湾という順序になる[38]。広東省の中では中山県の出身者が最も多く、広東省全体の約3分の1を占めていた。また高明県、南海県の出身者も多く、後述のように横浜在住の華僑たちが中山県出身の孫文、南海県出身の康有為を支援していく要因ともなった[39]。また戦後の調査によれば広東省、台湾、江蘇省、浙江省、福建省という順番となっており、広東省が圧倒的に多く、戦後の調査時の台湾出身者の中には、台湾を経由して日本に渡航する方が都合が良かったという事情があるのではとの可能性が指摘されている[40]。
1860年代以降、現在の中華街にあたる沼地居留地に中国人が多く住みだすようになり、1877年(明治10年)の時点で横浜在住の中国人の6割以上が沼地居留地とその周辺に居住していたが、3割を超える中国人は欧米人が多く住む地域に居住していた。沼地居留地とその周辺に住む中国人に比べ、欧米人が多く住む地域に居住する中国人は、欧米系の貿易関係、銀行、海運会社等に勤務する豊かで社会的地位が高い人たちが多かった[41]。1877年時点で現在の中華街地域に中国人が集中して居住する事実が確認できることから、この時点で横浜中華街が形成されていたと見なすことができる[42]。
形成された当初の横浜中華街では、工務店や塗装店など土木建築関係、家具やピアノ製造などの製造業、菓子製造などの食品業、洋裁店、理髪業、中華料理店など、職人や生活に密着した業種の商業を営む者が多かった[43][44]。なお横浜に限らず日本の華僑の特徴として、綿花やゴムノキといったプランテーションなど第一次産業や鉱業で働く労働者が見られないことが挙げられる[45]。また、後に横浜中華街を代表する産業となる中華料理店は、1870年(明治3年)の記録から確認はできるもののその数は少なく、20世紀に入る頃から増加していく[45]。
日清修好条規締結と領事の赴任
1870年(明治3年)7月から日本と清との間で条約締結交渉が始まった。条約締結を求める日本側に対し、清側は当初、消極的な態度であった。しかし条約締結の実務を担当した曽国藩、李鴻章は日本側からの要請を受け入れ、1871年(明治4年)9月に日清修好条規が締結された。清が条約締結の受け入れを決めた理由のひとつが、日本在住の中国人保護のために条約締結が必要であるとの判断であった[46]。
日清修好条規の中で、両国国民の相互往来、相手国への居住、居住者の管轄権等について定められた。そして日清修好条規とともに定められた日清通商章程の中で、両国の国民が相手国内で不動産の所有、貸借を行う場合の規定も定められた[47]。日本における中国人の不動産所有、貸借の規定が決められていく中で、横浜ではそれまで関羽を祭る小さなお堂であった関帝廟が本格的な廟として竣工し、中国人墓地用の土地の貸借が実現して中国人墓地の中華義荘が開設され、更には関帝廟の隣には横浜在住の華僑全体を取りまとめる団体である中華会館が使用する横浜中華会館が建てられた[48][49]。しかし条約締結後も清からの領事の赴任は遅れ、領事館が開設されるまでの暫定的措置として籍牌制度は継続された[50]。
1877年(明治10年)12月、日本に清の公使、何如璋が赴任した。そして公使何如璋の報知により、日本外務省は范錫朋の横浜領事任命を認可し、1878年(明治11年)2月5日に横浜領事館が開設された[51][52]。横浜に領事館が開設された理由としては、当時、日本に在留する中国人の約半数が横浜に居住していて、また開港場の中での貿易量も多く、中国人が活発な経済活動を展開していたためと言われている[52]。領事館の設置に伴い、横浜在住の中国人の管轄権限が領事館に移管された[53]。またこれまで民間団体である中華会館が代行していた日本側との交渉窓口も領事館が担うようになった[54]。
日清修好条規の締結に伴って日本在住の法的根拠を得て、そして日本在留中国人の保護業務を担う領事館の設置が実現したことで、1880年代から1890年代初頭にかけて、横浜の華僑社会は成長の波に乗った[54]。貿易により豊富な財力を手に入れた横浜在住の華僑たちは、中華会館、関帝廟の大改修を実行し、1892年(明治25年)には中国人墓地の中華義荘内に地蔵王廟を建てた[55][56]。しかしまもなく横浜の中国人社会は日清戦争により大きな打撃を被ることになる[55]。
日清修好条規の締結後、中国人は欧米人同様の治外法権を得た[57]。条約締結後、日本側の司法の管轄が及びにくくなった横浜中華街ではアヘン吸引が広まり、また賭博や売春も日本人も参画した形で広まっていった。日本側はこのような状況を問題視し、清国横浜領事館の協力を求めながら取り締まりを行ったが、横浜中華街では日本側の官憲が合法的な商取引にも干渉してくるとの反発が強まり、官憲と中国人との間にしばしばトラブルが発生した[58]。
日清戦争の影響
日本と清との関係が緊迫化する中で、1894年(明治27年)6月5日、日本政府は大本営を設置した。緊迫化する日清関係の中、清国横浜領事館は7月1日、横浜在住の中国人に午後9時以降の居留地外への外出禁止を命じた。一方日本側も緊迫する事態の中で中国人に危害が加えられることを防止するため、領事館、中華会館等に巡査を派遣して警備を開始した。横浜在住の多くの中国人は帰国を希望したが旅費の工面が困難な人たちも多く、清国横浜領事館は対応に苦慮した[59]。7月25日の豊島沖海戦により、日清両国は本格的な戦争状態に突入した。翌26日、日本政府は各地の開港場の中国人を保護するための警備を強化するよう指示を出し、横浜でも警備が強化された。しかし中国への帰国者は後を絶たず、結局、領事館による調査で保有資産が最下等であるとされた約8000名に対し、中華会館の積立金から旅費を支給することになった[60]。
日清間の関係が険悪化する中、7月9日に駐日清国公使は駐日アメリカ合衆国公使に対し、宣戦布告となり清の外交官が本国帰国した後、日本在住の中国人保護をアメリカ合衆国への委任を依頼した。同様の要請は日本側からもなされ、結局、宣戦布告後は領事裁判権を持つことは不可能であるが、アメリカ合衆国の公使館、領事館がその他の中国人保護の業務を担うことになった[61]。8月1日、日清両国は宣戦を布告したため両国の国交は断絶し、外交官は本国に引き揚げ、日清修好条規は効力を失った[61]。日本としては清と戦火を交わすことになったが、欧米諸国との条約改正を成就するために、国際法や国際慣習に則った中国人の処遇を行うことで、文明国であることをアピールする必要があった[62]。8月4日には勅令第147号により、日本に居続けることを希望する中国人には、これまで居住していた開港場の府県知事に住所、職業、氏名を届け出ることを条件に、身体と財産を保護し、平和的な職業に従事することを認めた[61]。
勅令第147号によっても、アメリカ合衆国の公使館、領事館が領事裁判権を持たなかったため、府県知事に住所、職業、氏名を届け出ると日本人扱いされるようになって、新規課税や日本軍への徴兵が実施されるのではないかとの憶測が広まり、中国人帰国の動きは止まらなかった[63]。居留地において中国人は欧米商人のもとで広範囲な業務で活躍しており、また居留市内の衣食住の多くを担っていた[64]。居留地から中国人が大量に居なくなることは、欧米人にとっても深刻な打撃を被ることになるため、アメリカ側から中国人に対し、勅令第147号によって新規課税や日本軍への徴兵が行われることはないと説明が行われた[64]。それでも中国人の帰国の流れは続き、宣戦布告後約一か月の9月初めまでの間に、横浜在住中国人の約3分の2が帰国した[65]。
1894年(明治27年)11月頃からは横浜に戻る中国人が現れ出した。日清戦争は日本優位で進み、1895年(明治28年)3月20日からは下関で講和会議が始まった。この頃になると中国人の再来日の動きが本格化する。戦争終結後、1898年(明治31年)になると横浜在住中国人の人口はほぼ戦争前の状態まで回復する[66]。
商権回復運動
日本政府は日清間の関係が険悪化した段階から中国人保護の施策を取ったが、実際には中国人に対する暴行事件が起きたと言われており、また横浜市内で中国人が井戸に毒を入れたというデマが流れたりした[67]。また横浜の古物商が中国人から古物の仕入れを行うことを拒否したり、中国人洋裁会社の下請けである日本人の洋裁会社が工賃の引き上げを要求し、ストライキを起こす事態も発生した[68]。
日清戦争の影響を受けて本格化したのが中国人に対する商権回復運動である[69]。商権回復運動は外国資本主導の貿易の中で不公正な取引を強いられていた日本が、欧米諸国やアジア各国相手に自由かつ公正な貿易を行う権利を手に入れることを目ざした運動であった[70]。対中国人に対する商権回復運動は、欧米の貿易商のもとで働く買弁や中国人スタッフに対し、日本側が慣習的に支払っていた手数料、そして不公正な度量衡の撤廃を求める運動が中心となった[71]。
幕末以降、日本人商人も貿易のノウハウを身に着け、実力をつけてきていた。そのような中で、これまで慣習化していた貿易の現場で中国人が手に入れていた各種手数料などの撤廃を求める商権回復運動が日清戦争が引き金となって本格化した[72][73]。しかし中国人側の抵抗は頑強であった。貿易に従事する中国人スタッフは薄給であり、手数料収入込みで生活を成り立たせていたため、手数料収入が絶たれることは死活問題であった[74]。日本側の手数料廃止の要求に対し、中国側貿易関係者は取引の拒絶等で対抗し、手数料の廃止は容易に進まなかった[75]。やがて日本人商人の成長によって20世紀に入ると買弁は徐々に姿を消していき[72]、明治の末頃には手数料も全廃された[76]。
条約改正の影響
幕末期に日本と欧米諸国間との間に締結されていた不平等条約は、条約改正の努力によって1894年に日英通商航海条約が結ばれ、その後他の欧米諸国とも同様の条約が締結されたことによって、条約締結後5年が経過した1899年(明治32年)8月9日に、領事裁判権と外国人居留地が廃止された[77]。外国人居留地が無くなると、外国人は日本国内で自由に居住し、経済活動に従事できる内地雑居となるが、ここで問題になったのが日本在住の中国人の扱いであった[78]。もともと中国人には治外法権は適用されておらず、条約上は内地雑居を妨げるものはなかった。中国人の日本居住に関しては勅令第137号第1条の規定に基づき、登録を行えば帝国内従来居住を許されたる場所での居住が認められるとされていた。従って欧米諸国との条約改正に関係なく、勅令第137号第1条の規定を継続していくことが可能であった[79]。しかし隣国の国民である中国人に対して、欧米諸国の国民と異なった対応を続けるのは外交上の信義の問題となるため、足並みをそろえるべきであるとの意見が出された。一方、アヘン吸引、賭博の習慣を持ち込む危険性や、単純労働者の流入によって日本の労働者の雇用状況の悪化を招く恐れが指摘され、制限の継続を求める意見も出された[80][79]。
横浜など日本に居住する中国人は、欧米人並みの内地雑居の実現を訴えた。1899年(明治32年)6月、横浜中華会館に横浜、神戸、長崎、函館の華僑代表が集まり、日本政府と民間の有力者に陳情を行うことを決議した[81]。また同じ席で日本に亡命中の梁啓超は、中国人排斥は中国本土のみならず東アジア一帯に商業ネットワークを広げている中国人商人の協力を得られなくなることに繋がり、大きなビジネス拡大の機会を逃すこと。中国人と中国資本を広く受け入れていけば日本の商業もビジネスチャンスを得られること。そもそも中国人を排斥したら中国国民の心証を害すること。そして中国人を排斥し日中関係の悪化を招けば、アジア侵略を続けている欧米の思う壺であると述べた[81][82]。また梁はアヘン吸引、賭博の習慣を持ち込む危険性や、単純労働者の流入といった懸念に対しては、日中の賃金格差を考えると来日する中国人の中で単純労働者の数は多くないと考えられ、また大半が商人である中国人は日本の法律を遵守していると主張した[83]。その後、大隈重信、犬養毅、西郷従道、松方正義ら政治家に陳情を行い、言論界にも訴え、さらに在日中国人の悪弊根絶のための運動を起こした[83]。
1899年(明治32年)7月10日の臨時閣議で、内閣法制局立案の日本在住中国人を対象にした中国人内地雑居に関する規定が承認され、7月27日に勅令第352号としていわゆる内地雑居令が公布された[84]。この勅令第352号は中国人の内地雑居を制限する内容であり、具体的には旧居留地外の中国人居住、営業活動は行政官庁の許可が必要というものであった[84]。そして勅令第352号の施行細則として定められた内務省令第42号により、旧居留地外で中国人が無許可で認められる労働は事実上家事や給仕のみとされ、農水産業や鉱業、建築、製造、運輸などの分野での就労は禁止された[85]。なお理髪や料理店、裁縫などは雑役に分類され内務大臣による許可制となった[85]。そして雑役のうち理髪、料理店については1912年(大正元年)11月に内務大臣の許可は不要となって地方長官による許可制となった[85]。この勅令第352号による中国人の内地雑居の制限は継続されており、未熟練労働者の流入を抑えることに繋がり、日本の華僑コミュニティは東南アジアや北米の華僑コミュニティよりも小規模かつ商業などサービス業関係者や技術者などに偏った構成になり[86][85]、また来日する中国人の多くが中華料理の料理人などの技能を持った職業従事者となった[87]。
内地雑居令は横浜在住の中国人たちにとって既得権益を脅かすものではないため、どちらかといえば歓迎された。居留地が廃止された1899年(明治32年)8月9日、横浜在住の中国人は犬養毅、大倉喜八郎らを招いて横浜在住中国人の商工会議所にあたる横浜華商会議所の創立大会を行った[88]。創立大会の席で初代横浜華商会議所に就任した盧栄彬は、日中友好、日本人との交流の促進と、中国が世界のビジネス界に伍していくために日本の地で商業の研鑽、商情の把握、人力の結集を図っていくべきと訴えた[89]。
中華街の変化

まがりなりにも内地雑居が実現すると、中国人と日本人との間の商売上の競争が激しくなっていく。中国人たちは旧居留地以外にも顧客を獲得していかねば成功がおぼつかなくなり、そのような中で、大工や塗装業のような建築関連、馬車、家具、食品等の製造業関連は中国人の活躍の場が狭められていき、印刷、クリーニングなどの分野も日本人が技術を習得していく中で中国人の優位は揺らいでいく[90]。結局、中国人の技術的優位が継続したのは料理、理髪、洋裁といういわゆる三把刀と呼ばれる分野になった[注釈 2][92]。日本語を習得し、日本の習慣を身に着けた横浜中華街の中国人の中には中華街の外で商売を展開する人たちが現れるようになり、西日本の神戸とともに中国人たちにとって日本進出の足掛かりの場となった。横浜は主に東日本各地で生活するようになった中国人たちにとって第二の故郷のような存在となった[93]。一方で横浜中華街に移り住んで商売を始める日本人も多くなり、横浜中華街は中国人、日本人がともに住み、商売を営む街となっていく[94]。

1899年の段階で、当初唐人街と呼ばれていた中華街は南京町と呼ばれるようになっており、現在の横浜中華街と規模的にはほぼ同一であった[96]。関東大震災前の横浜中華街では、中国人たちは故郷中国と同様の、主にレンガ製の壁に囲まれたレンガ造りの長屋住まいをしていた[97]。中国風の建物らしく原色系の色遣いも目立ったが、派手さはなくどこかくすんだ色調であり、街全体の雰囲気も静かで落ち着きがあった[98]。当時の中華街の裏路地には棺桶屋がいくつかあり、亡くなった中国人は分厚い材木で作られた石灰入りの棺桶に納められ、いったん中華義荘内の地蔵王廟に安置された。そして多くの遺体は定期的に中国からやってくる船に乗せられて、故郷中国で埋葬されていた[97][99]。
技術職中心であった中国人の賃金は当時の日本人の平均賃金よりも高かった。また衛生状態が好ましくなく、それはもともと中国人の衛生観念の不足によるものであるとの意見や、商売的に日本橋の魚河岸と近い内容であるため、魚河岸同様、町中に生臭い匂いがするではないかとの感想があった[100]。また1899年の段階で遠芳楼、聘珍楼、成昌楼の三店舗が中華料理の名店とされ、日本人にも中華料理のファンがいて、中華料理に対する興味関心が現れ始めていた[101]。1900年以降、中華街の中華料理店の数は増加していき、日本人相手の商売を広めていった[45]。なお横浜中華街で開業した中華料理店主のルーツはそのほとんどが広東省であった[45]。
辛亥革命と横浜中華街

清国内で変法自強運動を進めていた指導者の一人であった梁啓超は、戊戌の政変によって日本に亡命し、東京に滞在することになった。康有為、梁啓超ら保皇派は清朝統治のもとで立憲政治を確立し、欧米諸国に倣った近代化を進めていくことを目指したが、梁啓超は横浜で積極的に保皇派の活動を展開した[102]。まず保皇派の機関紙である『新議報』を創刊し、西太后を中心とした清朝の政治体制を批判し、欧米諸国に倣った産業振興、立憲政治を訴えた[103]。そして梁は前述の横浜華商会議所の創設にも大きく関与した。これは保皇派の方針として、産業の振興によって中国国内資本の充実を図り、外国資本に対抗して自国の利益を守るために、都市商人を組織した商工会議所の設置を重要視したためであった[104]。
一方、中国の立て直しには清朝を打倒して共和制を樹立しなければならないと主張する、孫文を中心とした革命派も横浜で活躍した[105]。孫文は10年近く横浜を活動の拠点としており、中国国外で最も長く活動した場所が横浜であった[106][105]。保皇派と革命派は対立したが、中国の近代化に賭ける情熱は共通しており、両派ともに近代的カリキュラムによる学校教育を重要視した[107][108]。革命派の記録によれば、1897年(明治30年)に来日した孫文に、横浜在住の革命派である陳小白が学校創設の相談をしたことがきっかけとなって中西学校が設立され、翌1898年(明治31年)に大同学校と改名された[注釈 3][110][108]。やがて大同学校は康有為、梁啓超らが指導する保皇派が主導権を握るようになり、1899年(明治32年)3月18日には犬養毅を名誉校長として正式な開学式を行った[110][109]。一方、孫文支持派の革命派は1908年(明治41年)に横浜華僑学校を設立する[注釈 4][112][113]。また浙江省、江蘇省出身者の子弟対象の初等教育を担う啓蒙学校が設立され、1913年12月には中華学校と改名されている[114]。横浜で中国人子弟を対象とした教育機関の設置が進んだ要因としては、前述のように孫文や康有為らからの影響を受けて、中国の近代化のためには教育が重要であることを横浜在住の中国人たちが認識するようになったことに加えて、学校設立に要する資金調達が可能である財力を蓄えていたこと、そして横浜の地で近代的教育に接する機会があったことが挙げられる[115]。
孫文と横浜中華街
1895年(明治28年)11月、広東省での武装蜂起に失敗した孫文は日本に亡命し、横浜に身を寄せる。その後、いったんイギリスなどに向かうが、1897年(明治30年)に再び横浜に戻り、横浜中華街内の陳小白宅に身を寄せる。その後いったん東京に移ったが、1898年(明治31年)には再び横浜中華街に戻り、今度は温炳臣宅に身を寄せる。孫文は温炳臣宅に約5年間過ごすことになった[116]。温炳臣と弟の温恵臣は孫文の横浜での生活全般を支援し、日本語通訳も行った。陳小白、温炳臣兄弟の他に、馮鏡如、馮自由親子ら、横浜在住の華僑の中には早くから孫文を支援し、革命活動に協力した人たちもいたが、辛亥革命前に孫文を支援した人たちは少数であった[117]。なお、孫文が横浜に戻った1897年(明治30年)には、中国国民党横浜支部が開設されている[118]。
1911年(明治44年)10月10日、湖北省武昌で起きた清朝打倒の反乱、武昌起義により辛亥革命が始まった。中国国内で清朝打倒の動きが広まっていくことを知った横浜中華街では、母国の革命参加の機運が高まって家々には革命旗が掲げられ、横浜在住の中国人たちの中から決死隊が結成され、義勇軍として革命側に参戦した[119]。また革命軍への寄付金も募り、総額6万円を送金した[120]。翌1912年(明治45年)2月15日には、横浜中華街で清の宣統帝が退位して、中華民国政府が樹立されたことを祝う催しが大々的に行われた[120]。そして2月18日は清の暦で旧正月に当たっていたが、中華民国では1912年1月1日をもってグレゴリオ暦への改暦が行われたことに倣い、横浜中華街でも1912年(明治45年)2月19日以降、グレゴリオ暦が採用された[121]。
1913年(大正2年)2月、孫文は日本を訪問し、3月5日に横浜中華街に足を伸ばした。この時の孫文の肩書は全国鉄路全権であり、横浜では官民挙げて孫文を大歓迎した[122]。これまでの横浜中華街滞在中は一部の中国人のみが孫文の支援を行っていたが、辛亥革命後のこの時の訪問では中華街を挙げての歓迎ムードであった[123]。横浜に長期間滞在した孫文らによる辛亥革命と中華民国の建国、そして横浜を舞台とした康有為、梁啓超ら保皇派の活動は、横浜中華街在住の中国人たちに中国人としてのアイデンティティと、愛国心に目覚めさせることに繋がった[124]。
関東大震災の被害

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により、横浜中華街は甚大な被害を被った。横浜中華街は狭い地域に建物がひしめき合い、路地も細く、しかも建物の多くが木造の骨組みの上に重いレンガを乗せた構造であったため、大部分の建物が倒壊して多くの人々が逃げ場を失った中で火災が発生してしまったため、中華街のほぼ全域が焼失してしまい、数多くの死者が出た[125]。
横浜中華街では主な建物では中華民国駐横浜総領事館、大同学校、華僑学校、中華学校、中華会館、関帝廟、横浜中華総商会などが倒壊し[125]、当時横浜に居住していた約5700人あまりの中国人のうち、約1700人が死亡したと推定されている[126]。当時の横浜市での震災の死亡率が総人口の約6パーセントであったのに対し、中国人の死亡率は約30%に達しており、関東大震災による横浜在住中国人の被害は深刻であった[127]。
被災した中国人たちは震災後、まずは横浜港内に停泊している船舶や新山下の埋め立て地に避難した。また後述のように中国人に対する虐殺事件が発生しており、多くの中国人が横浜から神戸、大阪方面、そして本国である中国へと避難していく[128]。少なからぬ中国人が震災を機に中国へ帰国していったが、日本に経済的基盤を確立していた人たちや、中国人労働者の日本入国が増える中で、入国許可を得るのが難しくなっていた状況もあり、阪神地区に留まる中国人も少なくなかった[129]。1923年(大正12年)10月25日には横浜在住の中国人は135人にまで激減する[130]。
震災後の復興
震災後、横浜総領事館が仮事務所で業務を再開し、震災犠牲者の遺体の収容と埋葬が進められた。9月24日に神戸在住の中国人40名余りが来浜し、約1か月の間、遺体収容に従事して982名の遺体を収容し、日本人が収容していた約700名の遺体とともに仮設の火葬場で荼毘に付した後、中華義荘に埋葬した[131]。関東大震災による甚大な人的被害の結果、数多くの遺体を故郷中国に運び埋葬することが困難となったため、遺体の中国への移送はいったん中断された[132]。
11月以降、震災後の混乱が収まってくるのに従い、横浜に中国人が戻り始めた。孫子傑代理総領事は神奈川県知事と横浜市長に中国人用の仮設住宅の建設を要請し[注釈 5]、新山下の埋め立て地に約200名が居住できる仮設住宅が建設された[133]。その後横浜中華街では徐々に建物の再建が進められていき、経済活動も再開していく[134]。また大震災で失われた大同学校、華僑学校、中華学校に関しては、横浜在住の中国人の中でも有力者たちが外務省に再建のための補助金交付を申請し、1925年3月に学校再建のための25000円の補助金が交付され、大同学校、華僑学校、中華学校の3校は合併して中華公立学校と改称し、1926年(大正15年)10月16日、横浜中華街の中に新造された校舎で落成式が行われた[135]。
しかし関東大震災は横浜中華街に後々まで残る大きな影響を残した。開港後、海産物や薬種、砂糖などの輸出業に携わってきた中国人の大手の貿易商らは、震災後に金融事情や倉庫や貨物の焼失といった商売環境が整わないことが原因で、避難先の神戸に留まることになった[135][136][137]。一方、料理店、理髪店など小資本で生活に密着した衣食住関連業種は、震災後スピーディに業績改善が見込まれるためその多くが横浜に戻ることになり、関東大震災による被災が、料理店や理髪店が横浜中華街のメインの業種となる要因のひとつとなった[135][136][137]。また関東大震災後に横浜中華街に再建された建物は、その多くがそれまでの中国の伝統的なレンガ造りの建物ではなかったため、再建後の横浜中華街は中国風の雰囲気が薄らいだ街並みとなった[138]。
中国人虐殺問題
関東大震災の発生後の物資の配給時に、中国人が差別的な扱いを受けていたとの証言や、横浜港に停泊していた船舶への中国人の避難を拒否したとの記録が残っている。また大同学校の生徒が食料品の配給を受けようとした際に射殺されたとの証言も残されている[139]。実際、関東大震災時に中国人が虐殺された事件が東京や横浜で発生していた[140]。
神奈川県内では判明しているだけで97名が殺害され、その他、24名が傷害、生死不明が2名の計113名の被害が確認されている[141]。横浜市内の事案はそのほとんどが震災直後の9月2日と3日に発生しており、子安町、神明町、高島町に集中的に起きていた[141]。横浜中華街付近でも自警団による中国人虐殺や、海に投げ込まれて溺死した事案や撲殺された事案が確認されており、事態鎮静化のために新山下に陸軍の部隊が派遣され、中国人保護にあたる事態になった[142]。未確認情報であるが、山下橋付近で多くの中国人が殺されたとの記録が残されており、また事態鎮静化のために陸軍部隊が派遣されたことからも、横浜中華街周辺での中国人の虐殺犠牲者はかなりの数に及んだのではないかとの推測もなされている[143]。
虐殺の背景には、震災発生当時、第一次大戦後の不況下に天災も重なる中で、中国人労働者の来日が増加していて、日本側当局や日本人労働者と中国人との間の軋轢が増大していたことが挙げられる[144][145]。震災後の中国人への差別的待遇と虐殺の事実は中国本土に避難した避難民たちの証言から中国本土へと広まり、日中間の重大な外交問題へと発展した[146]。虐殺の事実が明らかになる中で、駐日公使館は日本側に対して厳重抗議を行い、孫子傑駐横浜代理総領事は本国宛に虐殺事案の酷さを具体的に報告した上で、日本政府が責任を免れることは到底できないとして、本国政府に厳重交渉を求める報告を上げていた[147]。中国政府は10月3日に外交部総長の顧維鈞が駐中国日本公使の芳沢謙吉に厳重抗議を行い、虐殺問題の調査団を日本に派遣する等の対応を行った[146]。
震災後、日本に対する支援ムードが高まっていた中国世論も、虐殺問題が公になるにつれて態度を硬化させていく[148]。11月21日、外交部総長顧維鈞は芳沢謙吉公使に対して犠牲者家族に対しての賠償を要求し、さらに12月6日には世論の硬化を説明した上で、虐殺事案加害者の厳正な処罰と賠償を要求した[149]。その後も中国側は犯人の処罰と賠償を要求し続けたが、日本側は1924年(大正13年)5月に清浦内閣が虐殺の被害者家族に総額20万円の慰藉金の支払いを決定した[150][151]。これは慰藉金の分配は中国側に一任するが、犯人の処罰については出来ないといった内容であった[152]。中国側としては慰藉金の支払い後も問題は外交的に未解決であるとの見解を取り、日本側に交渉を要求したものの、棚ざらし状態のまま結局立ち消え状態となった[152][151]。
昭和戦前期の横浜中華街
横浜中華街の震災からの復興と発展に大きな役割を果たしたのは1919年(大正8年)8月に創設されていた中日協会であった[153]。中日協会は中華民国駐横浜総領事、神奈川県知事、横浜市長を名誉会員とし、日中両国の親善と経済的な結びつきの強化を図る団体であった[153]。1930年(昭和5年)、中日協会は横浜中華街振興策を立案する。中日協会の提案は横浜中華街の大通りに面した建物を中国式に整備して、横浜観光の目玉とする案であった[154]。このような観光を重視した横浜中華街の再建方針は、前述のように震災後に中国人貿易商が横浜に戻ることがなく、料理店や各種小売業などの業種が中心の街となる中で、中日協会が観光による街の活性化を選択したためと考えられる[155]。

震災の教訓を踏まえ、横浜中華街の中華料理店の建物の多くは、中華風の鉄筋コンクリート造の建物で再建された[156]。1930年には横浜中華街の中華料理店の中でも老舗である聘珍楼が営業を再開し、その後、数年の間に萬新楼、平安楼といった大型の中華料理店が相次いで開業した[157][154]。中でも萬新楼は広東省からコックを招聘し、政財界人の贔屓筋が多く、また聘珍楼は一度に200名から300名の会食が可能な大広間などを設け、多くの客を集めた[158]。横浜中華街は中日協会のもくろみ通り、横浜名所として知られるようになる[157]。
なお1930年代の横浜中華街は、中国人と日本人が共に暮らす街であった。観光客を集める聘珍楼、萬新楼、平安楼などの大型中華料理店とともに、鮮魚店、牛乳屋、青果店なども同じ通り沿いに並び、地元横浜の市場との取引が重要である生鮮食料品店や、許可制のタバコ、酒、米の販売は日本人が担っていた[159]。
戦争の影響

昭和戦前期、戦争の影響は横浜中華街に暗い影を落とした。まず1931年(昭和6年)に起きた満洲事変の影響により1500名以上、割合にして約4割の中国人が横浜を離れた。その後、いったん横浜の中国人人口は持ち直していくが、今度は1937年(昭和12年)7月からの日中戦争により再び大きく減少する[160]。日中戦争開始から約1か月が経過した8月、戦線が上海まで拡大すると、横浜在住の中国人から中華民国駐横浜総領事館に帰国の問い合わせが殺到するようになった[161]1937年(昭和12年)8月、中華民国政府は日本在住の中国人の帰国希望者を横浜、神戸、長崎に集め、中国から派遣した6隻の商船で帰国をさせることにした[161]。その決定を聞きつけた日本在住の中国人たちの中で、横浜港から帰国するとされた北海道、東北地方、関東地方、北陸地方在住の人々が横浜中華街に殺到した[162]。
日中戦争開戦当初、中華民国駐横浜総領事館と中国国民党横浜支部は中国人の民族意識の高揚を唱え、中華民国の立場を支持し、日本を批判する活動を展開した[163]。中国国民党横浜支部の活動は神奈川県警の監視下に置かれ、活動に圧力が加えられた。日本側当局から加えられた圧力の中で活動は低調になっていくが[164]、1937年(昭和12年)12月、かつて孫文の革命活動を支援した温炳臣、恵臣兄弟ら横浜中華街在住の中国国民党員が、蔣介石との間に手紙のやり取りをしている等の嫌疑により、逮捕拘留された[165]。取り調べの結果、20名の中国国民党員が中国に送還され、1937年(昭和12年)12月31日、中国国民党横浜支部は解散する[164]。
中華民国駐横浜総領事館の活動も神奈川県警の監視下に置かれ、領事館員保護の名目で領事館員と外部との接触を妨害する措置が講じられた[118]。1937年(昭和12年)12月南京戦の結果、中華民国の首都南京が陥落し、やはり1937年(昭和12年)12月に日本軍のイニシアティブのもと、北京に中華民国臨時政府が樹立されると、横浜中華街在住の中国人の中には中華民国臨時政府支持の動きが広まった[166]。中華民国駐横浜総領事館はその動きを抑えようとしたが、中華民国臨時政府支持の動きの広がりを止めることは出来ず、横浜中華街在住の中国人たちは中華民国支持派と中華民国臨時政府支持派に分かれ、激しい対立が起きた[167]。結局、1938年(昭和13年)1月16日の「南京政府を対手とせず」との内容の近衛声明により、事実上の国交断絶状態となったことを受け、2月6日に中華民国駐横浜総領事館は閉鎖され、領事館員は中国に帰国した[118]。
近衛声明を受けて、横浜中華街在住の中国人の大部分は中華民国臨時政府支持を支持するようになり、中華会館は青天白日旗ではなくて中華民国臨時政府の五色旗を掲揚するようになった[168]。4月7日には中華民国臨時政府の駐日弁事処が設立され、1939年(昭和14年)4月5日に中華民国臨時政府横浜弁事処が開設された。その後、汪兆銘政権の成立に伴い、1940年(昭和15年)9月1日、汪兆銘政権の中華民国駐横浜領事館が開設された[169]。
中華民国駐横浜総領事館の閉鎖後、横浜中華街在住の中国人たちは日支親善融和を唱え、積極的に親日的な活動を行っていくようになった[170]。汪兆銘政権成立後、日本の友好国扱いであった汪兆銘政権を支持した横浜中華街の中国人たちは比較的平穏に生活していた[171]。しかし戦時体制が強化されていく中で、横浜中華街に残った中国人は、中華街を離れる際には近くであっても証明書の発行を受けなければならない等、移動に厳しい制限が加えられたり、日本で生まれた二世の中国人も留学生扱いされるなど、厳しい監視下に置かれた[157]。中華公立学校も敵国の関係施設と見なされ、当局からの厳しい監視下に置かれるようになった[172]。1939年(昭和14年)の時点で、神奈川県下における中国人経営の雑貨、金融業者は9割減、料理、理髪、洋裁業なども半減と、大きく減少していた[173]。戦時体制が強化されていく中で、横浜在住の中国人たちの経済活動は大きな打撃を受けた。対外貿易は縮小し、在住中国人の減少によって料理店、理髪業、洋裁業なども大きな打撃を被った[174]。
横浜在住の中国人は横浜中華街に集められ、人口が急増した。人口が急増した横浜中華街の衛生環境は劣悪であり、特に水が悪かったため健康状態を悪化させた中国人も多かった[175]。そして日中戦争後、中国に遺体を運ぶ船舶の運航が出来なくなった。また墓地である中華義荘もいっぱいになってきたため、横浜中華街在住の中国人の埋葬方式はこれまでの土葬から火葬へと変わっていった[99]。
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲により、当時の横浜市街地の約42パーセントが焼失した[176]。横浜中華街は横浜大空襲によって壊滅的な被害を受け、一面の焼け野原となった[177][178]。
ヤミ市からの復興
GHQは日本に在住している台湾、朝鮮など旧外地に出自がある人々を外国人として処遇した[179]。終戦後、横浜は広範囲に連合軍の駐留施設として接収された。しかし中華街は戦勝国である中華民国国籍の住民が多く住んでいたため、接収を免れた[179]。戦勝国民扱いされた横浜中華街在住の中国人たちは、食料品、衣料品、医薬品といった生活物資の優先供給を受けた[180]。また横浜市当局も戦勝国民扱いされた中国人に対しての規制を控えがちとなった[181]。そして横浜周辺の米軍基地で働くようになった中国人は、基地内で物資を入手するようになった[182]。戦後の物不足の中でも横浜中華街は物資が潤沢であったため闇市が開かれ、多くの日本人がつめかけて賑わいをみせた[181]。
そのような状況を見た進駐軍と日本側の当局は、1946年(昭和21年)に横浜中華街で横流しされた米軍物資と統制品の取り締まりを行い、違反とされた物資を押収した[181][182]。闇市はやがて下火になっていくが、1947年(昭和22年)9月に横浜の日本人経営の商人が、中国や東南アジアへの貿易を積極的に行うために横浜中華街の中国人商人たちに連携を呼びかけた[183]。1949年(昭和24年)8月には華僑総会で自治会が結成された[183]。
闇市の衰退により横浜中華街の活気は一時的に落ち着きをみせたが、1950年(昭和25年)に起きた朝鮮戦争によって、横浜港は戦場へ往来する兵士たちが大勢立ち寄るようになった。また船舶の来航も増加したため、船員たちの往来も激しくなった。横浜中華街は中国人たちが米兵や船員たちをターゲットとしたキャバレーやバーを争うように開業して、夜になるとネオンが明るく輝き、昼間以上の賑わいを見せるようになった[184][185]。1952年(昭和27年)には大さん橋が接収解除となって外国からの船舶の来航はさらに増加し、より多くの船員たちが横浜中華街の外人相手のキャバレーやバーで遊ぶようになった[186]。賑わいの反面、横浜中華街は密輸や売春が横行し、ヤクザも暗躍するようになって治安が悪化した[187]。横浜中華街は治安が悪い歓楽街であるとのイメージが広まったが、横浜中華街を舞台としたアクション映画の制作が相次いで行われたことによってそのようなイメージが強化され、1960年代まで港町にある治安が悪い歓楽街であるとのイメージが主流であった[188]。
二つの中国と横浜中華街
在日中国人の帰国問題
国共内戦の結果、1949年(昭和24年)10月1日に中華人民共和国の建国が宣言された。国共内戦後の国家建設のために専門性がある人材が不足していたため、建国直後から中華人民共和国政府は海外在住の中国人たちに熱心に帰国を呼び掛けた[189]。一方、中華民国側も海外在住の中国人たちの人材確保を重視しており、国共内戦中から両者の海外人材争奪戦は始まっていた[190]。中華人民共和国建国後の帰国呼びかけに中華民国側は危機感をつのらせ、やはり熱心に日本在住中国人に対して台湾へ帰国するように呼びかけを行った[191]。
当初、中華人民共和国の帰国呼びかけに対しての日本在住の中国人の反応は良好であった[192]。しかし1950年(昭和25年)の朝鮮戦争開戦後、GHQの支持を受けてレッドパージが行われ、親中華人民共和国の在日中国人の組織や個人が捜査対象となり、逮捕される者も出た。朝鮮戦争後、在日中国人の中華人民共和国への帰国は困難となる[193]。結局、終戦後に中国に取り残された日本人の問題を抱えていた日本側と中華人民共和国側は中華民国の反対を押し切り、双方の帰国問題で1953年(昭和28年)に合意が成立し、帰国希望者の中国への直接帰国が実現した[194]。横浜中華街でも呼びかけに応えて中華人民共和国に帰国する中国人が現れ、横浜中華学校の関係者で150名以上が帰国したことが確認されている[195]。
学校事件

国共内戦の結果、台湾に本拠地を移した中国国民党は1950年(昭和25年)7月から党組織の改造に取り組んだ。この党組織の改造の過程で、海外在住の中国人に対する施策の見直しと強化が図られ、1950年(昭和25年)8月には中国国民党中央改造委員会の下に海外の党組織、党員を指導する第三部を設置する[196]。1951年(昭和26年)7月、日本在住の中国国民党の活動工作員が、横浜と神戸の中国共産党の活動状況の報告書を蔣介石総統に提出し、中国国民党中央改造委員会に回付された[197]。この報告書では日本在住の中国人の間に中国共産党の勢力の浸透が目立つことを指摘し、中国国民党の駐日部署による宣伝強化を訴えていた。1951年(昭和26年)7月の時点で、日本在住の中国人の中では中国共産党支持の勢いが中国国民党支持を上回っていたことが推測される[197]。
終戦時、日本にいた台湾、満洲国出身の中国人留学生たちの多くが、北京語を教える教師として日本の中華学校で教鞭をとるようになった。そのような教師たちの多くが左傾化し、中華人民共和国を支持した[198]。横浜中華学校も中華人民共和国支持の教師が校務を掌握するようになり、中華民国駐日代表団が派遣した校長が、二代続けて追放される事態となった[注釈 6][199]。1952年(昭和27年)3月、元日本留学生の烏勒吉が校長に就任し、中華人民共和国の教科書が採用され、毛沢東主席を称える歌が歌われるなど、中国共産党の影響下に置かれた[200][199]。
中華民国駐日代表団副団長の汪公紀は、帰任前に王慶仁を横浜中華学校の新校長に推薦した。1952年(昭和27年)7月25日、王慶仁が横浜中華学校の校長に任命され、元日本留学生の教師は解雇された[199]。8月1日、王慶仁らは横浜中華学校の接収に乗り出し、解雇された元日本留学生の教師らとの間に衝突が発生し、日本の警察が介入するに至った[199]。夏休み明けの9月1日には王慶仁から横浜中華学校を奪還しようとする一部学生らの動きが激しくなって、やはり日本の警察が介入するに至り、王慶仁校長の反対派学生の中には逮捕者も出た[199]。この横浜中華学校を舞台とした中華人民共和国派、中華民国派の衝突を学校事件と呼ぶ[201]。
横浜中華学校は1955年(昭和30年)に横浜中華中学と改称され、1969年(昭和44年)以降は横浜中華学院となる[199]。一方、烏勒吉ら横浜中華学校を解雇された元日本留学生教師と中華人民共和国支持派の父兄たちは、中華人民共和国を支持する各家庭やレストランに分散して授業を再開する。その後、1953年(昭和28年)に山手町に横浜中華学校臨時校舎を開設し、1957年(昭和32年)には横浜山手中華学校と改称した[199]。1972年(昭和47年)の日中国交正常化までの間、中華人民共和国の国旗を掲揚した中華学校は横浜山手中華学校のみであった[199]。こうして中華学校は中華人民共和国派、中華民国派に分裂した[202]。
さらに中華学校の分裂が引き金となって、1953年(昭和28年)に横浜華僑婦女会、1955年には横浜自由華僑婦女協会が設立され、華僑総会も中華人民共和国派と中華民国派に分裂した[198][202]。同じ横浜中華街に住みながら、両学校の生徒は街ですれ違っても互いに目を合わせなかったとのエピソードが語られており[203]、学校事件をきっかけとした横浜中華街の中国人コミュニティの分断は後々まで尾を引くことになり、横浜中華街に苦痛と負担を与え続けた[204]。
観光地化の始まり

朝鮮戦争による特需の好景気下にあった1952年(昭和27年)頃から、横浜中華街の中で中華料理店が増え始めた[205]。また1952年(昭和27年)には横浜華銀が営業を開始した。日本の銀行は中国人の経営者に対しての融資に消極的であったが、横浜華銀は積極的に融資を行った[注釈 7][注釈 8][87][205]。
1953年(昭和28年)、平沼亮三横浜市長と半井清横浜商工会議所会頭が日米太平洋市長会議に参加するために訪米した。訪米した平沼と半井は、アメリカ各都市の中華街がそれぞれ独自の持ち味を生かして主要観光地となっているのを見て、横浜中華街の活性化を考えついた[206]。半井は帰国後、横浜の商店街復興のきっかけとすべく、「チャイナタウンの復興」と「元町の復興」を提唱した[207]。半井は横浜中華街、元町、山下公園を一体化した観光開発を行い、国内外を問わず観光客を呼び寄せようと考えた[208]。そのためには
- 中華街、元町、山下公園の地域全体の道路拡張。
- 戦前に開業した老舗中華料理店に積極的な宣伝活動の展開を求め、料理の内容を再検討してもらう。
- 関東大震災前は日本有数の技術を誇っていた洋裁業を再び一流のものに育てていく。
- 現存の関帝廟など、中国風の情緒がある建造物を修理し、宣伝していく。
- 特殊な雰囲気を持つ小劇場を集中的に建てていく。
- 大衆層をターゲットとした低価格帯の中華料理を提供する料理店を整備する。
以上6点の整備が必要不可欠であるとした[208]。
1953年(昭和28年)11月末、横浜市、神奈川県、横浜商工会議所の後援により、「中華街・元町振興会」が結成された。振興会には横浜中華街の有力な中華料理店主、元町商店街の商業協同組合役員、中日協会の関係者らが参加した[209][206]。
「中華街・元町振興会」は、中華街のシンボルとして牌楼の建設を進めることになった。新たに中華街牌楼建設委員会が設立され、1954年(昭和29年)9月から建設が開始され、翌1955年(昭和30年)2月に完成した[210][211]。牌楼には中華街の文字が飾られ、牌楼の完成をきっかけにこれまで支那町、南京町と呼ばれてきた横浜中華街は、中華街という名称が定着することになった[211][212]。1956年(昭和31年)には横浜中華街で商売を営む経営者が集まって、任意団体の横浜中華街発展会が結成された。横浜中華街発展会の加入者の多くは料理店の店主であり、街灯の設置、宣伝活動を行い、前述のように治安が悪い歓楽街的なイメージであった横浜中華街の悪評払しょくに尽力した[213][214]。
観光の発展と分断の影響

戦後、理髪業、洋裁業には日本人業者が進出していくようになったため、横浜中華街の中国人店舗は減少していく[215]。一方、1960年(昭和35年)頃、横浜中華街の中華料理店は約40軒に増えていた。1960年代に入り、日本経済が高度経済成長期に入ると、好景気の影響を受けて増加の傾向に拍車がかかり、1962年(昭和37年)には64軒となった[216]。
1964年(昭和39年)、根岸線が磯子駅まで開通し、横浜中華街から徒歩5、6分の場所に石川町駅が開業し、横浜中華街へのアクセスは格段に向上した[217][218]。同年、東京オリンピックが開催され、横浜でも横浜文化体育館でバレーボール、三ツ沢競技場でサッカーの試合が開催され、横浜中華街も多くの客を集めた[217]。
1970年(昭和45年)頃からは、経済的に余裕が出てきた日本人の多くが、家族連れなどでしばしば外食を楽しむようになり、また国内を旅行する機会も増えた。横浜中華街もそのような風潮の影響を受けて中華料理店の店舗数が急ピッチで増えていく[219]。1971年(昭和46年)には、それまで横浜中華街のイメージアップに努めてきた任意団体の中華街発展会が、法人組織である横浜中華街発展会協同組合に衣替えした[220][221]。横浜中華街発展会協同組合は横浜中華街で商売を営む中国人、日本人により構成され、横浜中華街のシンボルでもある牌楼を東西南北の入口部分に建て、歩道の整備、テレビによる宣伝を行った[221][222]。また横浜中華街発展会協同組合は政治的中立の立場を堅持した[222]。1972年(昭和47年)には、車社会の到来を見越して横浜中華街で大規模な駐車場を経営する横浜中華街パーキング共同組合が結成された[223]。
1972年(昭和47年)の日中国交正常化後、日本では中国ブームが起こり、一番身近に中国を感じられる場所として横浜中華街はテレビ、ラジオ、新聞雑誌などのマスメディアで頻繁に取り上げられるようになった[224][225]。また中国ブームの中で中国の食文化に対する関心も強まっていき、横浜中華街の注目度は更に高まった[226]。横浜中華街は多くの観光客を集める全国レベルの観光地となり、国交回復によって中国大陸からの輸入が容易になったこともあって、中華料理店の他、観光客目当ての中国の菓子、民芸品、物産などを販売する店舗が増加した[227][228]。
なお、中華街の振興策は元町商店街とタイアップした形で行われていた。開港後、居留地在住の欧米人をターゲットとした商売を展開していた元町商店街は、戦後は進駐軍である米兵を主なターゲットとしており、欧米系の顧客を相手とし続けていた。しかし1953年(昭和28年)に朝鮮戦争が終結し、翌1954年(昭和29年)からは進駐軍の帰還が本格化する中で、顧客を喪失する危機に見舞われていた[229]。そこでこれまでの欧米人から日本人相手の商売への転換を図るべく、歩道の整備などの街並みの整備とともに、これまで欧米人相手の商売を続けてきた強みを生かし、欧米からの輸入のノウハウを駆使して海外ファッションブランドの衣料品を販売する衣料系店舗の充実を図った。高度経済成長下、このもくろみは成功を収め、元町はファッションの街として全国的に知られるようになった[230]。ファッションの街としてのイメージが定着した元町からは、元町独自のブランドも成長していく[231]。こうして食の横浜中華街、衣の元町と、タイアップした形で街が発展していった[231]。
繰り返される対立

1952年(昭和27年)の学校事件以降、横浜中華街は発展の道を歩んでいくが、中華人民共和国派、中華民国派の厳しい内部対立は続いていった[232][233]。前述のように中華学校や華僑総会といった組織の分断が起き[198][202]、横浜中華街の中国人の間にも分断は広まった[234]。戦後復興の中で横浜在住の中国人たちの文化、スポーツ分野での親睦、交流を図るために結成された中華青年会は分断の影響をもろに被ることになった[235]。中華青年会は中華人民共和国派、中華民国派の対立から距離を置き、中立の立場に立とうとした。しかし激しい中華人民共和国派、中華民国派の対立の中で中立の立場を取り続けることは出来なかった。中国人たちは事実上どちらを支持するのかの立場表明を強いられ、日本への帰化のハードルも高かったため、中華人民共和国系、中華民国系の色分けがなされることになった[236]。中華青年会は活動中止していき、青年会が担っていた横浜中華街の獅子舞は、中華人民共和国系の横浜中華学校校友会、中華民国系の横浜中華学院校友会に継承され、別々に獅子舞を演じるようになった[237]。また分断を象徴するのが中国の建国記念日であった。10月1日の国慶節を中華人民共和国系の中国人が祝い、五星紅旗を掲揚し、一方、中華民国系の中国人は10月10日の双十節を祝い、青天白日旗を掲揚するようになった[238][239]。
横浜中華街の中国人たちの場合、戦前からの老舗中華料理店のオーナーらは中華民国派が多かったが、小規模な店舗経営者など貧しい中国人は中華人民共和国派が多数であった[240]。両者の激しい対立の中で、反対派の店舗の窓ガラスが割られたり、ペンキやコールタールがかけられたり、特務(スパイ)との落書きをされるなどの妨害活動が起きた[241][242]。日中国交正常化の翌日である1972年(昭和47年)9月30日、中華人民共和国系の中国人の若者約30名が中華民国系の横浜中華学院に乱入し、小競り合いになった[243]。そこにかつて横浜中華学校の校長を務め、校長辞任後は中華民国系の横浜華僑協会の副会長となっていた王慶仁がやってきた[244]。王慶仁は中華人民共和国系の中国人たちから1952年の学校事件の張本人とみなされ、横浜中華街の中国人コミュニティに分断をもたらした元凶として憎しみの的であった[245]。若者たちは王慶仁を取り囲み暴行を加え、ひとしきり暴行をした後、若者たちは引き揚げた。王慶仁は下の前歯が全て取れ、右顎などを骨折して約1か月の入院となる重傷を負った[注釈 9][243][246]。
更なる発展と分断の緩和

賑わいをみせるようになった横浜中華街で1978年(昭和53年)に開業したのがチャイハネである。世界各国から民芸品、衣料品を仕入れ、販売するエスニックファッションの店であるチャイハネは、欧米的な雰囲気の元町と中国的な雰囲気の中華街を繋ぐ場所にある横浜中華街の南門通りこそ、東西文化の懸け橋であるシルクロード的な立地であると考え、出店希望をした[247][248]。中華街以外では真新しいコンセプトの店舗の開店にはハードルが高かったが、お互いに干渉しない文化の横浜中華街では地元も協力的で、開店に漕ぎつけることが出来た[249]。1980年代に入り、グルメブームの中で横浜中華街は更に発展していく。テレビでは頻繁に横浜中華街のグルメ情報が放映され、1979年(昭和54年)に95軒であった中華料理店は、1986年(昭和61年)は132軒、そして1992年には158軒と飛躍的に増加していく[250][251][252]。テレビ番組で中国ブームの拡大に大きな影響を与えたのが、NHK番組のシルクロードであった。日中共同取材で中国国内のシルクロードを撮影し、1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて放映されたシルクロードは平均視聴率約20パーセントのヒット番組となって中国ブームの過熱化に拍車をかけた[253]。チャイハネはこのシルクロード放映が経営拡大の追い風となった[254]。
そのような中で、1986年(昭和61年)1月1日、関帝廟が焼失する。横浜大空襲によって焼失した関帝廟は横浜中華学校の校庭に再建されていたが、横浜中華街の中国人コミュニティが中華人民共和国系、中華民国系に分断された後、中華民国系の横浜中華学校校庭に建つ関帝廟は両者の所有権争いに見舞われ、訴訟の対象となってしまっていた[255][256]。焼失直後から中華民国系の横浜華僑総会は再建に向けて動き出したが、中華人民共和国系の横浜華僑総会は、関帝廟は横浜中華街中国人コミュニティの総意により再建されるべきと主張して、中華民国系の横浜華僑総会の再建活動に強く反発した。その結果、焼失後1年以上の間、関帝廟再建の動きは事実上ストップした[255]。

横浜中華街の中国人コミュニティが中華人民共和国系、中華民国系に分断される中、関帝廟の再建に向けて指導力を発揮したのは王慶仁であった[257]。王慶仁は「私が手を下し分裂させた華僑社会を私の手で平和にしたい、そのために関帝廟再建は必ず成功させる」。と語り、中華人民共和国系、中華民国系の融和に向けて双方の有力者らとの話し合いを重ね、両者の間の溝の修復に尽力した[258][259]。関帝廟が焼失した1986年(昭和61年)には、横浜中華街の町おこしの目的で行われた春節祭が中華人民共和国系、中華民国系の共催が実現し、両者の間に和解の動きが始まっていた[260]。また前述のように横浜中華街発展会協同組合は政治的に中立の立場を取っていた[222]。関帝廟再建のための再建委員会には、中華人民共和国系、中華民国系の委員とともに、政治的に中立な立場の横浜中華街発展会協同組合の幹部も参加することになった[261]。
委員会での話し合いは比較的スムーズに進んでいった。しかしここで中華民国の対日本外交の窓口である亜東関係協会が、中華人民共和国側と連携しての関帝廟の再建に絶対反対を表明した[262]。王慶仁や中華民国系の華僑総会の会長であった呉笑安らは、関係者たちの説得に奔走し、呉笑安は関帝廟の再建は横浜の華僑たちの問題であって国の問題ではない、華僑たちがお金を出し合って再建すると亜東関係協会からの干渉を突っぱねた。結局、亜東関係協会も折れざるを得なかった[262]。1988年(昭和63年)3月16日に両者の合意が成立し、関帝廟をめぐる訴訟も取り下げられた[263]。4月には関帝廟の再建工事が着工され、中国本土、台湾からも工匠が来浜し、再建工事に加わった。そして1990年(平成2年)6月、関帝廟は竣工した[264]。関帝廟の再建後、横浜中華街でのイベント時に中華人民共和国系、中華民国系が同席することが定着し、各店舗でも国慶節と双十節をともに祝う姿が見られるようになった[265]。
賑わい続ける横浜中華街と新たな動き
1980年代後半からのバブル経済期、これまで中国人経営者に対しての融資に消極的であった日本の銀行も、積極的に融資を行うようになった。その結果、横浜中華街の多くの店舗が改装され、大規模化、高層化が進んだ[266]。1989年(平成元年)9月、首都高速湾岸線の横浜ベイブリッジが開通した。その結果、首都圏からの車によるアクセスがしやすくなって、横浜中華街にはより多くの車と人が押し寄せるようになり、ベイブリッジ効果と呼ばれた[267]。

1993年(平成5年)1月、横浜中華街関連の24団体により横浜中華街街づくり団体連合協議会が結成される[268][221][269]。協議会では牌楼の建て替えと新設、横浜中華街内の公園の再整備、大通りの整備等に取り組んだ[221][270]。2003年(平成15年)には、横浜中華街内に高層マンションの建設計画が持ち上がった。中華街内に高層マンションが建設されると、中国風の伝統的景観を保ってきた横浜中華街の景観を損なうことが懸念され、横浜中華街街づくり団体連合協議会は施工主と協議の結果、土地を買い取ることになった。買い取った土地には華僑の信仰篤い媽祖を祭る横浜媽祖廟が建設されることになり、2006年(平成18年)に完成する[271][272]。2004年(平成16年)2月には横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、横浜中華街関係者の希望通り、横浜中華街最寄り駅が元町・中華街駅と命名された。みなとみらい線の開通によって渋谷方面からのアクセスが容易となり、横浜中華街を訪れる若者が多くなって、リーズナブルな食べ放題、食べ歩きの店が増加する要因となった[273][274]。
横浜中華街が発展の波に乗った1970年代半ば頃から、横浜中華街で働くコックを中華街内で賄いきれなくなり、香港などからコックを招聘するようになっていた[275]。バブル経済期の中華料理店の大型化に伴い、コックを香港や台湾、そして中華人民共和国の改革開放政策が本格化すると中国本土から招聘するようになった[275]。1986年(昭和61年)、中華人民共和国は私的理由による外国出国を認めるようになって来日する中国人が増加し、横浜中華街で中国人留学生、就学生がアルバイトをすることが多くなり、アルバイトをする中で独立して開業を目指す者も現れるようになった[276]。そのような流れの中で、これまで店舗兼住居が基本であった横浜中華街の店舗の多くが、住居を中華街の外に構え、店に通勤する職住分離が進行した[275]。
1990年代に入り、バブル経済が崩壊した後も横浜中華街を訪れる観光客に大きな減少はなかったものの、客単価は目立って減少した。そのような中で閉店に追い込まれる老舗も多く、近年中国からやって来た新華僑と呼ばれる人々が店を引き継いだり、新華僑が新規に開業することが相次ぐようになった[277]。新華僑による店舗は横浜中華街に新しい風を吹き込んでいて[278]、横浜中華街に新たな活力を与えているとの指摘もある[279]。一方では横浜中華街発展会協同組合に加盟せず、街のルールに従わないケースが目立つなどの問題も発生している[280]。

幕末期から横浜にやって来た中国人たちは遺体を故郷中国に送り埋葬したことに示されるように、いつかは故郷に帰るモットーであった。これは「落葉帰根」、葉が落ちて根に帰っていくという言葉に象徴されている。しかし時が経つにつれて「落地生根」、地に落ちて根を生やす、すなわち横浜の地に定住していくことを選択していった[281]。日本に定着していくにつれてその生活も日本化が進んでいった[282]。横浜中華街に住む中国系住民は、中国人意識を無くしていって中華街から離れていく人たちが増えている反面、中華街で二世、三世として育った住民が中華街を故郷とみなし、ルーツである中国と日本とを結びつける場として、受け継がれてきた中国文化を継承、発展させ、中国人としてのアイデンティティを持ちながら日本の地に定住し続ける独自のコミュニティとなっていると指摘する意見がある[283]。
また横浜中華街ではバブル経済崩壊後に廃業した空き店舗に占い店が入居することが多くなり、2000年代から占い店が増えている[284]。横浜中華街に占い店が増加している理由としては、占い店は飲食店よりも開店までの初期費用が安価であり、撤退も容易である。またパワースポットとされる関帝廟、媽祖廟があり、風水で守られた土地であるとのイメージによるのではとの意見がある[285]。その他、中国系ではない店舗の横浜中華街への進出も目立つようになっている[286]。